Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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「回=回」は核P-Modelなのか?

 

平沢進の核P-Model名義の最新作「回=回」が投下されて一ヶ月が過ぎたが、概ね肯定に捉える感想が溢れる一方で、「これが本当に核P-Modelなのか」という疑念は軽く提示されたものの、程なくライブの話題が中心になり、その疑念は未だ真剣に顧みられてはいない。簡潔に説明すると、本作は従来の核P-Model路線は弱まり、平沢進名義の作風が侵入している。ライブの選曲もその時の名義ごとにしっかり線引きがされていただけに、この混合は彼のキャリア上では十分な事件である。

別に自分は彼の音楽や言動を貪るように掘り返しているようなマニアではないが、平沢の半世紀以上に及ぶ音楽遍歴において、新譜がいかなる位置に座することになるのかをこの機会に真剣に考えてみたい。

 

そもそも「核P-Model」とは何なのか。

今までの「核P-Model」名義は「イラク戦争」「3.11」という外的世界への平沢の反応だった。マスコミや政治の体たらくっぷりに憤りながらも、赤裸々に政治的な歌詞を書くぐらいなら豆腐に頭をぶつけて死んだ方がマシと思っている(勝手な想像)平沢に許されたのは、解散したはずのP-Modelを「太陽系亞種音」サーガの一部分に定義づけて新たな名義で再出発させることだった(なお、双方ともトリガーとなる事件の後に平沢進名義のアルバムを1枚挟んでいるが、壮大な茶番を仕込む準備期間であろう)。

その結果生まれたのが「嘘つけP-Modelでもここまで高圧的じゃないかったぞ」な「ビストロン」であり、「ああ、P-Modelやりたいんだな」という「 гипноза 」であり、あるいは「背後から襲われて気絶している間にパソコン勝手に弄られて垂れ流された」という回りくどい前口上の後、露骨な原発批判(あるいは思考停止的に原発NOしか言わない人たちへの批判) を繰り広げたステルスマン名義の「原子力」だったりした。

 

HIRASAWA三行log – 「胸踊る」

Phantom Notes - 「時震」

平沢自らのネット上での発言は厖大なアーカイブとして公開されていてとても追いきれないが、彼の思想が垣間見えるものを引っ張ってきた。基本的に彼は体制による隠匿と民衆の勝利を信じている。非常にニヒリスティックだが。

 

じゃあ今回平沢は何か怒り狂っている対象があるのか。「否」とは言えないが、9.11の後にファンとメディアの話を巡って喧嘩になって掲示板閉鎖にもつれ込んだあの平沢と今日日の平沢は、内面がどうかはともかく攻撃性が大分と違う。むしろ指摘したいのは、「最近ドラムなしのライブの方が少ないのでは?」という音楽環境面での変化だ。

前作「 гипноза 」でかつての右腕であった田中靖美にラブコールを送った後も、minus(-)やヒカシューへのゲスト参加や第9曼荼羅での元バンドメンバーの上領亘との共演などの経験を通し、生バンドから離れた90年代後半以来かつてなく身体的な音楽を体験している平沢の胸中にP-Modelへの郷愁が湧き上がったことは想像に難くない。

 

そう言う意味では「核P-Model」を再始動させるお膳立ては整っていた。ただし、彼がビストロンの頃から失ったものがある。「声」だ。

別に声そのものが老け込んだり劣化した訳ではなく、ライブではビストロン時代より高音の音程が取れるようになっていて技巧的な面ではむしろ進化している。だが、ビストロンで聞くことのできた荒々しい叫びを出すための声量はない(恐らくは2009年の「点呼する惑星」辺りが分水嶺か)。今の平沢に信者を平身低頭させる説教は出来ても、道ゆく第三者を巻き込んでアジテートする演説は出来ない(先日のライブで「Big Brother」を生で聞いたが、声の覇気が大分と衰え、物々しいコーラスの同期におんぶしている感は否めなかった)。

 

そこで着目されたのが「平沢進」としての音楽性だ。ストリングスアレンジアルバム「突弦変異」「変弦自在」およびライブ「東京異次弦空洞」でのP-Modelと平沢進の統合が図られた後、出囃子集という体裁でP-Model〜平沢進〜核P-Modelの全キャリアが一堂に会した「導入のマジック」とそれに伴うライブ「HYBRID PHONON」で1980年代から2010年代までの平沢進の作品が一挙に演奏され、既に彼の名義間の領域はほとんど消滅していた。

その結果、まろやかな声にあった近年の「平沢進」名義での作風と純粋な音楽体験としての「P-Model」のバンドサウンドの再現との融合を図った、それでも「核P-Model」と名付けるしかない奇妙な新作が産み落とされたのである。

 

CD帯を見ればコンセプトの変化は一目瞭然である。 

ビストロン=「類似品にご注意ください! これはP-MODELではありません。」

回=回=「中期〜改訂期をまたぐP-MODELの亡霊とソロプロジェクトの不均衡的整合のモンスターが出会う驚異の電子POP」

 

それを証明する1番分かりやすい特徴はストリングスの解禁だ。シンセストリングスなら「ビストロン」(曲名)でも使われていたが、本作の「幽霊飛行機」では、「現象の花の秘密」で全面起用された「Hollywood Strings」 らしき本物のオーケストラのサンプリングを利用している。これは単純な機材の変化もあるかもしれないが、ならば何故「Hollywood Strings」導入後の「 гипноза 」では用いられなかったのか。

 それと並ぶか次点としての本作の特徴、それはギターの大躍進である。全曲にギターが入っているという点でもそうだが、表題曲と先述の「幽霊飛行機」ではギターがリフを担っているだけでなく、サーフロック調の音楽性が大々的に取り上げられている。別に彼のサーフロック好きは今に始まったことではなく、「美術館で会った人だろ」のThe Atlanticsの「Turista」の引用や「聖馬蹄形惑星の大詐欺師」「Wi-SiWi」などで自分の音楽に昇華させる試みは断続的になされていた。ただし、飛び道具としてではなくアルバム全体でサーフロック要素を滲ませているのはおそらく初めてである。

 

他にも、「遮眼大師」のスネアの生ドラム風の音色や平沢進名義でタイアップしてきた今敏作品への提供曲「OPUS」など、指摘できる点はまだあるが、アルバムの歌詞面についても触れておこう。

 

ブックレットの冒頭に「無頭騎士からの伝言」なる本作全体のメッセージを平沢節で語った短い声明があり、簡単にまとめると「本来の人間性への回帰」がコンセプトのアルバムである。最終曲の題名である「HUMAN-LE」という制限された状態を脱してHUMANに戻る、というストーリーが今回平沢の意図するところらしい。これは平沢がずっと試みてきたテーマであり、阿呆どもに踊らされた民衆を啓蒙する核P-Modelのコンセプト、ひいては「ビストロン」の裏主題とも言える「1984年」の世界観にも合致する。

 

「無頭騎士の伝言」(こっちは曲)で、平沢は「鋭敏に時は割く 永遠にキミを割く」と、「HUMAN-LE」では「明日より遠くキミは居て」と歌う。

「今」を生きる我々にとって、過去の自分と未来の自分は今の自分とは同じ存在であると同時に、別の存在である。何故か。時間は直線的であり、遡及不可なものであるからである。それこそ、永遠に交わることがない概念として。だが、音楽においては「録音」という再現性のある行為を行うことにより、過去の自分をいくらでも蘇らせることが出来る。「回=回」ではP-Modelと平沢進が鳴らしてきた音を「核P-Model」と名乗って鳴らすことで、過去と今の混合が発生した。それを未来の平沢が拾い上げて、新しい平沢進の音楽へと発展させた瞬間、「今」に過去と未来が回帰し、「回=回」は成立する。

 

総括すると、このアルバムは「核P-Model」名義で本来行ってきた蒙昧の人々に対する真実への回帰だけではなく、平沢進自身にとっての回帰も試みた作品であり、だからこそ彼のキャリアを跨ぐ「核P-Model」という名義で出さなければならなかったのである。このアルバムが成功であるかは、将来の平沢が本作の意味を理解して「回帰」するかどうかにかかっている。

 

平沢進は死なない。「回=回」を聞けばいつだって「彼」は戻ってくる。

DYGLのMVを監督したToto Vivianのバンド、Splashhは活動休止前に人知れず完成形を記録していた 。

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このMVめちゃくちゃカッコよくないですか?80年代から90年代前半のイギリスのライブハウスっぽい感じ、まさに!って感じがする。

今日はこんなカッコいいバンドDYGLの音楽について、ではなくこのビデオを監督した人のバンドについて紹介します。このビデオ監督は例えば他に、2018年秋冬のPRETTY GREENのBlack Labelコレクションの動画なんかも手がけている個人的に注目の選手だ。

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このビデオを監督しているToto Vivian さん、現在は映像の方面で活躍を見せているのですが、元々はSplashhという結構凄いバンドのギタリスト。DYGLのMVを手がけたのも、きっとNYのインディーロックシーンで交流があったことが発端なのかなと僕は推測している。DYGLとの関連からもわかる通りSplashhは、その知名度とは裏腹に現在のインディーロックシーンの交差点の様な場所にあった非常に大切なバンドだ。一体どういうバンドなのか、見過ごされがちな彼らの素晴らしい音楽を今日は紹介していきたい。

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Splashhは、トト・ヴィヴィアン(Toto Vivian)、サーシャ・カールソン(Sasha Carlson)、二人の青年を中心に2012年、ロンドンで結成されたバンドだ。定期的に懐かしくなる、PeaceやSwim Deep、JAWSなどバーミンガムのバンド中心に広がった2012年〜2014年頃(?)のあのインディロックシーンの一部と同列に語られる様なバンドでもあるだろう。サイケとシューゲイザーの雰囲気を纏った軽快なロック、あの感じのバンドだ。

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『All I Wanna Do』は2013年にリリースされたファーストアルバム『Comfort』からの一曲。どこからか太陽の香りと、波のリズムが漂ってくる様。ペットサウンズのようなのんびり白昼夢的な雰囲気がファーストアルバムの一番の魅力と言えるだろう。

Splashh自体はロンドンで結成されたバンドだが、トトはイタリア生まれオーストラリア育ち、サーシャは生まれも育ちもニュージーランド、他のメンバーに関してもロンドンっ子は一人もいない。

ちなみにベーシストのThomas Beal はSplashh加入前にはRipchord(クークスやカイザーチーフス、ベイビーシャンブルズのサポーティングアクトも務めていたバンド)のメンバーとして活動していた。また、結成時のドラマーJacob Moore は2014年にSplashhを脱退し、スーパーオーガニズムの全身バンドの一つとも言えるThe Eversons で活動していた。

Splashhの1stが出たあの頃に僕が好きだったバンドに、二枚目のアルバムを出すのが遅かったバンド(テンプルズ)、解散するバンド(パーマヴァイオレッツ)が目立っている気がするのだが、実のところSplashhに関しては両方ともをしっかり踏んでしまっている。彼らは昨年やっと二枚目のアルバムをリリースし、今年ついこの前6月に無期限の活動休止に入ったところだ。昨年はアジアツアーで中国と東南アジアには行っていたが、日本には結局来ないままだった。

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昨年出た2ndアルバム『Waiting A Lifetime』は僕の中では圧倒的な傑作で、2017年新譜のランキングでは上位5枚に入るほど気に入っていた。しかし、親しい友人たちにすらSplashhの素晴らしさを伝えきれていなかった、挙句にアジアツアー日本すっ飛ばしからの活動休止だ。解散ではなく活動休止、いつか活動が再開された時には間違いなく来日してもらいたい。その為にも、今のうちに僕がSplashhの良さを語っておくべきなのだろうと勝手に責任の様なものを感じている。

やはり、1stアルバムの新鮮味で一気にファンを増やし、四年ものブランクを経て忘れられてしまったバンド、そんな風潮があるSplashhだが、彼らの音楽の一番美味しいところは1st以降だというのが僕の意見だ。転換期のいくつかのシングル、そしてギチっと締まったクールなバンドとして再出発した2ndアルバムには目を見張るもの、唯一無二の素晴らしさを感じる。

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例えば、上にリンクを貼ったPure Blue は『Honey + Salt』と題された2ndアルバムに収録されることを予定されていた曲で、エレクトロニカからの影響を色濃く受けているシューゲイズ。NMEのインタビュー記事によれば彼ら自身、1stアルバム『Comfort』の様な音楽に嫌気が差して(サーシャは自分のiTunesからComfortを消したらしい)、全く違う方向性のシンセベースのダンスロックを作りたいと言っていた。Air、コクトーツインズ、caribou、プライマルスクリームのスクリーマデリカなどの音楽を2ndアルバムの方向性の例にあげていた。

結局2ndアルバムとして予定されていた『Honey + Salt』はレコーディング途中(?)でスクラップされて、エレクトロニカ路線アルバムには収録されなかったが、僕の周りにいるSplashh好きの中で一番評価が高いのはこの『Pure Blue』のシングルだと思う。ちなみに『Pure Blue』のレコーディング時にはもうドラマーのJacobは脱退しており、この曲のみPeace のドラマーであるドミニクが参加している。

『Pure Blue』のシングルには、Pure Blue の他にもう一曲、Nobody Loves You Like I Do という曲が入っている。この曲は、昨年晴れてリリースされた2ndアルバム『Waiting A Lifetime』ツアーのセットオープナーほぼ固定曲になっていた。そしてセットクローザーはPure Blue だ。いかにこの2曲入りのシングルがバンドにとって大切だったかが想像できる。

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昨年、『Honey + Salt』改め『Waiting A Lifetime』という名前で遂にリリースされた2ndアルバムは、4年間の努力の結晶と呼べる様な素晴らしいアルバムだ。ボツになってしまった録音は聴けなかったものの、シンセベースのダンスミュージックを経由していることが曲の雰囲気から容易に想像できる。ちなみに『Honey + Salt』の直接的な名残はアルバム7曲目の『Look Down to Turn Away』などで顕著だ。かと言って1stアルバム『Comfort』の頃の彼らを象徴していた白昼夢のようなぼんやりと浮遊するシューゲイザーが失われた訳ではない。ゆらゆらと揺れる浜辺のような音は依然として背景を支配している上に、より高い解像度で楽しむことができる。

サウンド自体はシューゲイズ〜ガレージロックリバイバルという枠に入るが、明らかに他のインディーロックバンドとは違う曲の骨組みが感じられる、とても不思議な音楽だ。

Splashhは4年かけてアバンギャルドで挑戦的、そんな素敵なバンドに変貌した。そう言っていいだろう。

 

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上の動画はToto Vivian 自身が監督したSplashhの2ndアルバムの表題曲Waiting A lifetime のMVだ。結成から2ndアルバムが出るまでのSplashhの思い出を早送りにしたかのようなこのビデオ、発表された当時は4年も長い間、待った甲斐があった戻ってきてくれてありがとうと胸が熱くなった。

活動を休止されてしまった今このビデオを見せられると、本当に言葉が出ない、素晴らしい音楽をいくつもありがとう?ご苦労様でした?うーん、違う。いくらでも待つからこれからも期待してる、そう言うことにする。

無期限の活動休止という報告本当に寂しくなるニュースだけれど、確かにSplashhの音楽は『Waiting A Lifetime』で一つ完成形になったと言えるし、このタイミングで各々の活動に集中するのも間違っていないのかもしれない。冒頭にあげた通りToto Vivian の映像関係の露出で、今も音楽シーンと密接に関わって、それぞれの道で腕を磨いているとわかったし、気長にまたSplashhが動き出すのを待とうと思う。

バンドの公式インスタグラムによれば、近々『2ndアルバム制作時のelectronic influencedデモ音源』、要するに幻のアルバム『Honey + Salt』のデモ音源を無料公開する予定だそうで、当分はそれをおかずに飯が食えそうでもある。あまり悲観的にならず、不在の間に彼らが忘れられないよう、これからも積極的に素晴らしさを唐突にゴリ押ししていこう、皆で。

 

by Merah aka 鈴木レイヤ

街角で理想の夏を見つけた話

これはある夏の夜の出来事だ。

 

僕は体調の優れない中受けた就活セミナーを終え、半ば朦朧としつつ家路に着いていた。四条通は酷暑にも関わらず相変わらずの人混みで、街の喧騒から身を守るため、僕はメタルを聴いていた(体調が悪くてもメタルは聞く)。イスラエルのバンド、Orphaned Landの新譜は疲れている自分を鼓舞し、包み込んでくれる。いつか記事にしよう。そう思って僕は道沿いの店には目もくれず、ただ家を目指して歩き続けた。

 

そうこうして、四条河原町の交差点に辿り着かんとする頃合いから、イヤホン越しにストリートミュージシャンの演奏が少し漏れ聞こえてきた。何やら和風ながらも欧米の楽器の音色であることが窺い知れ、更に言うと弦楽器のタッピング音が全体を支配しており、僕は「Chapman Stickだったら面白いな〜まあ、ないだろうけど」と、プログレ界隈では有名な(逆にその界隈でしか知られていない)10弦の楽器を思い浮かべつつ、自らの考えを否定した。

 

そうこうしているうちに、音の出所まで辿り着いた。

 

 

Chapman Stickじゃん。

 

 

余りにも予想外で、僕は思考停止状態に陥り、足を止める神経の信号を送ることに失敗し、通り過ぎてしまった。一分ほどして平静を取り戻し、引き返して自分が見た光景が本当であるかを確かめることにした。

 

 

Chapman Stickじゃん。

 

 

説明しよう!Chapman Stickとは、Emmett Chapmanが考案した弦楽器であり、8,10,12弦の3種が販売されている。見た目はギターのネックがぶっとくなった棒状の形をしていて、基本的な奏法はタッピングのみであって、ピックは使わないよ(弓で弾くこともあるぞ!)。エフェクター次第ではギターの音にもベースの音にも変化する万能な弦楽器であり、タッピングを駆使して片手で伴奏、片手でメロディーといったピアノのような演奏スタイルが可能なんだ。

この楽器を一躍有名にしたのはKing CrimsonのベーシストTony Levin氏であり、彼の演奏を機にプログレ界隈で一気に広まったんだ。なお、プログレ好きで知られるベボベの関根嬢も最近ライブでChapman Stickを弾いているところをお披露目したぞ。

あと、楽器名が長いから以後は「スティック」でよろしく。

 

そのTony Levin氏によるデモストレーションを見ていただけたらスティックがどのような楽器か大体分かるのではないだろうか。

 

さて、話を戻すと、件のストリートミュージシャンは男性がスティックを弾き、横で女性がソプラノで日本語の歌を歌っていた。その歌は歌詞ならず旋律も和風であり、スティックの叙情的なアルペジオの上を歌声がたゆたう様は言いようもない美しさで、僕はまるでそこだけ時空を超えて大昔の日本にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。人のごった返す酷暑の京都の交差点なのにも関わらず、彼らの周りだけ静寂と涼しげな空気に包まれていた。

 

場所は違うが、このようなスタイルで演奏していた。自分は見たときは女性も椅子に座り、マイクに向かって凛として構えていたのが印象的であった。

 

これを逃してはいけないと思い、当時(今も)食費をどう工面するか悩むレベルの金欠であったにも関わらず、即財布を取り出し、野口英世たちをカゴに送り出し、アルバムを手にとって帰路に着いた。後悔は一ミリもしていない。

散々焦らしてしまったが、ユニット名は「十一」(読み方は「じゅういち」)。スティック奏者の辻賢氏とソプラノ鳥井麗香嬢の二人組で、アルバムにはケーナ奏者やベーシストなどのゲストが参加している。また、CD版だと以下のBandcamp版のデュオのボーナストラックがない代わりに、オリジナル曲が更に5曲収録されている。

 

 

【アルバムレビュー】

 

十一の魅力を漏らさず伝えきっている素晴らしい1曲目「薄明」では、情緒的なスティックの旋律に乗ってソプラノのボーカルが幽玄な節回しで歌い、ボリビアの縦笛ケーナがどこか尺八を思わせる音色で二者の奏でるハーモニーに品良く絡んでくる。サビの盛り上げに向けてスティックが細かく音を刻んできたり、それまで裏にいたケーナが全面に出てきたりと、シンプルな編成でありながらもしっかり緩急がついていて、叙情一辺倒で終わらないところがアルバム全体のカラーを示唆している。

しっとりとした侘び寂び曲「夜桜」を挟んで続く「三番町の秋」では、ある人への思慕の思いを切々と歌う出だしからサビでは打って変わり、3拍子でワルツの様に音が跳ね、歌詞も音楽も明るくなる。アルバムの3曲目で曲名にも「三」が付くところは遊びだろうか。サウンドコンセプトや叙情性に甘えず、(ほぼ)アコースティックな音楽性でも決して飽きさせないようにする姿勢がよく伝わる曲だ。

続く「未来螺旋」や「鬼灯の坂」では、スティックがプログレにおいて名を馳せた楽器であることを再認識させる白熱した展開が繰り広げられる。低音と高音を同時に鳴らせるスティックの持ち味が存分に活かされ、打楽器がないにも関わらずバンドサウンドを聞いているかのようなスリリングさを感じるのは、この楽器があるからこそだ。

そして、ボーナストラックを除けば本編最後であり、メロディーの美しさと儚さもアルバム随一である「花園」がこの短い幻想への旅を締めくくる。もし惰性的にここまで読んでしまったという人がいたら、この1曲だけでも聞いてほしい。それだけでこの音楽の素晴らしさが存分に伝わるからだ。

 

こみ上げる気持ちを振り絞って歌い上げる、と書けばまるで演歌のようだが、実際に演歌の和の要素をうんと強めて、なお所々に欧米のエッセンスを散りばめたらこんな音になるのだろうという世界観だ。

 

 

 

繰り返して書くように、十一の良さは単純にサウンドコンセプトや雰囲気がいいところだけではない。巷のアンプラグドライブでは味わえない緊迫感や緩急の付け所もあり、バンドのライブのようでなおかつアコースティックな音楽にしかない美しさも味わえる、美味しいところ取りの音楽なのだ。

なお、京都の路上ライブだけでなく、ちゃんとした会場でのライブも京都に限らず名古屋や東京でも行っているので、もしこの記事でおや、となった方には是非チェックしていただきたい。

 

公式サイト

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aiko「ストロー」からみる 愛のゆくえ

 恋愛が鬱陶しがられ始めて久しい昨今ではあるが、人が人を求めるというのはやはり根源的欲求なのではないかと思ってしまうことも多々だ。だから我々はSNSにアカウントをつくり、誰かをフォローし、誰かにフォローされ、情報を発信し、情報を受信し、いいねをつけ、いいねをつけられる日々を送る。

 人類が人間社会を築き共同体として生を全うする以上、なにかを求める先には必ず人間がいる。そしてウェブ2.0期を境とする人間社会のアップデート以降、我々の抱く欲求とその満たし方をも更新され、人間関係の形式までもが多様化した。つまり、恋愛それ自体がオワコンとなった訳ではなく、恋愛以外の人との関わり方が拡大したことにより相対的に人間関係における恋愛の比率が低下し、かねてより続く恋愛至上主義的なものに我々は鬱陶しさを覚えるようになったのではないだろうか。また、性自認や性的指向の垣根が取り払われたことにより恋愛の形式も多様化しただろう。

 そんな現代だからこそ、我々は“恋愛”について考えてみる必要があるのではないか。人類が“恋“と呼び、“愛”と名付けたその現象は一体なんだったのか。人間の営みの中でも最小単位の文化、最小規模のエンターテイメントとも言える人と人との交流の中でもなぜ恋愛が特別視されてきたのだろうか、いま一度振り返ってみようではないか。

 

 私は、恋愛において人々が求めているのは端的に言って「他者」であると感じている。そもそも「自己」とは「他者」を認識し、その対比として確認されるものだ。人生とは「他者」であり、他者性を追求する最たる行為こそが「恋愛」であると思うのだ。

 小説家・平野啓一郎氏は著書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』でこんなことを書いている。

 

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態である。(中略)他者を経由した自己肯定の状態である。

 

 分人とは、人間とはそれ以上分割不可能な「個人(individual)」という存在ではなく、更に細かく複数に「分けられる(dividual)」存在であり、「自己」とはそれぞれの「他者」との相互作用の中に存在するものである、という平野氏が提唱する概念である。

 人間は他者を経由することでしか自分を存在させることができない。さらに経由する他者によって自己とは変わりゆくものである。そんな変動し続ける「自己」をプレイングする人生というゲームにおいて、最も自己を自己足らしめてくれる他者との関係性こそが「恋愛」なのではないだろうか。

 さらに、平野氏は同著書で、「恋」とは短期間で燃え上がるものであり、「愛」とは継続性の期待されるものであると説き、また、こうも書いている。

 

持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないか。

 

 「あなた」を反映した「わたし」でいられる瞬間の愛おしさをそれぞれが抱ける関係性、つまり「わたし」と「あなた」との間に自然発生的に生じる「共同性」こそが愛だ。「他者性」は「自己」への強い反応があると「共同性」へと変換する。そこに人が恋愛を求める理由があるような気がする。恋愛とはBoy meets GirlではなくYou & I である。

 

 恋は盲目とも言うように、「あなた」によって共同性を獲得しようとする愛すべき「わたし」にとってはすべての日常が特別性を帯びてくる。筆者の好きな和歌にこんなものがある。

 

信濃なる 千曲の川の 細石も

君し踏みてば 玉と拾わん  (万葉集 巻十四の三四〇〇 作者未詳)

 

 

 愛すべきあなたが踏んだ石であるのなら、川沿いに転がるなんてことのないただの小石であろうと宝になりうる。この「わたし」と「あなた」の共同性を築き上げる中のみで発生する美しき世界。まさに毎日がスペシャル、当たり前が輝き出し、日常だった光景が非日常へと移り変わる。これでこそ「あなた」と「わたし」の燃え上がる恋のパワーなのだろう。

 

 では、その燃え上がった恋のパワーが弱まり継続性の愛へと転じたとき、「あなた」と「わたし」の共同性が自然と化したとき、「あなた」が「わたし」を経由した分人の居心地の良さに慣れきったとき、愛はどこへ向かうのだろうか。「わたし」はなにを思うのだろうか、「あなた」になにを願うのだろうか。

 きっと「わたし」はこう願うだろう〈君にいいことがあるように〉と。

 

 

 デビューから20周年を迎える今年、その間日本のポップミュージック界の最前線でひたすらに「あなた」と「わたし」を綴った歌を歌い続けてきたaikoから、ニューアルバム『湿った夏の始まり』が届けられた。

 本アルバムで特に目を引くのは、やはりシングル曲でもある「ストロー」だろう。〈君にいいことがあるように 今日は赤いストローさしてあげる 君にいいことがあるように あるように あるように〉のフレーズが何度も繰り返され、嫌が応にも口ずさんでしまうほど印象的な「ストロー」では、「あなた」との共同性を獲得し、ある程度時間が経過した後の「わたし」の日常が歌われている。

 

 この〈君にいいことがあるように〉というフレーズ、字面だけみると前向きな思いと取れなくもないが、筆者にはどこかaikoの陰を感じてならない。曲自体も非常にリズミカルで小気味良い曲調ではあるが、決してハツラツとした明るさではなく胸の内に霧がかかったような印象を受けてしまう。軽やかながらも靄のかかった部分が奥底に潜んでいるかのようなこの感覚は、私たちが日常生活を送る中で度々感じる“マンネリ”に似たものがある。

 

 人間は慣れきったことは無意識で処理するようになるが、無意識は時に怠慢へと変化する。同じ時刻に起床し、同じような朝食を食べ、着替えをし、同じ時刻に家を出る、同じ時刻の電車に乗って年配のサラリーマンたちに押しつぶされ、同じ時刻に職場に着く、仕事の終わる時間だけは不安定で帰宅する時刻はバラバラだが、何時に帰ってこようが身体は疲れているからご飯食べてシャワー浴びてスマホを眺めながらゴロゴロしていつの間にか寝てしまう。そんな生活が習慣化し、毎日延々と同じ動作を繰り返していくうちに徐々に日常が当たり前に蝕まれ、“自分”が遠退いていくような感覚に苛まれる。自分は何のために毎日生活しているのだろうか、残りの人生もずっとこのままなのだろうか、そんなことを考えては「人生」とか「人間」とか「労働」とか「社会」とかの意味がわからなくなり、明日を生きる気力の一切を失ってしまう現代人もそう少なくないはずだ。

 

 「ストロー」ではその虚無にも似た感覚が恋人との同居生活に生じてしまう。

 

初めて手が触れたこの部屋で なんでもないいつもの朝食を 喉を通らなかったこの部屋で パジャマのままで朝食を

 

 君と初めて手が触れたのはこの部屋だったね。あれは君と出会ってから何度目のことだっただろうか、わからないけどお互いになんだかドキドキしたことは覚えているよ、コンビニで買ってきたお惣菜の味もわからないほどドキドキして結局ろくに手もつけないで、君に身体を委ねたあの日のことを……

 

 〈初めて手が触れた〉を字面どおり受け取るとして、手が触れたそれだけのことでものが喉を通らないほどの緊張感を覚えるのは「わたし」の中で「あなた」が特別な「他者」として存在しているからに他ならない。特別な存在である君との共同性の獲得を目標として過ごした日々は君と時間を共にすることそれ自体が非日常であり、何気ない当たり前の時間が特別なものに見えた。時を重ねるほどに一緒になれた私と君はついに同居することになった。これからはすべての瞬間が特別に感じられ、君と一緒にいつもドキドキしていられる、そう思った。

 だが、一つ屋根の下で君と過ごす日々は時間を経るごとに新鮮味が薄れ、当たり前になり、すぐそばに君がいるだけではドキドキなんてするわけもない。だから私は当たり前のように君の分も朝食をつくる。君も朝目が覚めると、パジャマのまま食卓へ座り、テレビから流れるワイドショーに気を取られながらなんでもない朝食をなんでもないように食べる。「わたし」と「あなた」が共同性を手にしたいま、同じ空間で同じ相手を前にしてごはんを食べることすらできないくらいに緊張していた「わたし」と「あなた」はもう存在しないのだ、愛は“燃焼”ではなく“継続”だ。

 

寝癖ひどいね 行ってらっしゃい 小さくさようならと手を振る 明日も君の笑顔を見られますようにと手をふる

 

 お互いを意識して些細な動作にすらも緊張していたあの頃の私たちはもういない。君はいま、私を目の前にしてもパジャマのまま寝起きの顔を平然と見せてくれるし、寝癖を恥じる素振りも見せない。昔は外を歩いていても窓ガラスに自分が反射するたびに髪型を気にしてた。

 忙しなく支度を終えた君はいつもの時刻に出勤する。君の帰りはいつも遅いよね、残業頑張ってるんだよね、そうわかっているから「行ってらっしゃい」と言う胸の内で「さようなら」とつぶやく。今日の君にはもう会えないとわかっているから「さようなら」とつぶやく。明日の朝、パジャマ姿で寝癖のついた君とまた会えますようにと、そのわずかな時間に君の笑顔を見られますようにと、私は手を振る。君は、次に私と会うのは明日になるということに気付いているのかな……

 

 〈君にいいことがあるように〉という私の抽象的な願いは、君の生活の具体像を描けなくなったことの表れでもある。君と一緒になってからは君と一緒にいる時間が減ってしまった。私のいないところで君が誰と関わって、どんな表情をして、どんな言葉を発して…そんなことを知るすべなどなにひとつない。それでも私にとってかけがえのない存在である君が、私のいないところで過ごす君の生活が少しでもいいものであってほしい、だから私はただただ願う、君にいいことがあるように。

 

瞳閉じて書いた日記 薄くて強い覚え書き ずいぶん色が変わったなって見えない心が愛おしい

 

 ふと、昔書いた日記に手を伸ばす。記された出来事はどれもありふれていて、特別なことはひとつもなくて、もしかしたらいまの生活ともあまり変わらないのかもしれない。でも、その文字からは幸せな私たちの様子が浮かび上がってくる。なんでもない朝食を一緒に食べただけのことがどうしてこうも嬉しそうに書かれているのだろう。一挙一動に幸福を感じていたあの頃の私と君の非日常は、いまや私たちの日常になった。正直、いまの生活は出会った頃より悲しくて寂しいかもしれないと思うこともある。でも、日常に君がいてくれるからいまの私が存在する。

 

お皿に残る白い夢を君の口に入れてごちそうさま 大きな小さい半分に慣れた頃思うこと

 

 「わたし」と「あなた」が「わたしたち」になることを夢見たあの頃は、ふたりで夢を追いかけた。「わたし」と「あなた」が「わたしたち」になったいまは、私は「わたしたち」としての私の夢をみて、君は「わたしたち」としての君の夢をみる。私の夢が君の夢であり、君の夢が私の夢であったあの頃とは少し違う。

 

君にいいことがあるように 今日は赤いストローさしてあげる 君にいいことがあるように あるように

 

 aikoは“赤いストロー”についてこんなエピソードを語っている。

 

赤色のストローを引いた時なんだか嬉しくて『小さいけどなんか前向きになれる嬉しい事が好きな人にたくさん起こったらいいな』と思って作りました 

 

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 赤いストローとは、すなわち愛する「あなた」が踏んだ小石のようなものである。小石自体に価値はないが「わたし」が「あなた」への想いを小石にも付与することでそれは「わたし」にとっての宝石となる。つまり、赤いストローを引いた時の嬉しさはaikoだけのものなのだ。〈君にいいことがあるように〉と願いながら赤いストローをさす行為は私にとっては小さな幸福であるが、君は赤いストローになにか思い入れがあるわけではないし、赤いストローをみて今日も頑張ろうと思うわけでもない。赤いストローは「わたしたち」の幸福ではない。ただ、君と生きる私の生活の些細な嬉しさのようなことが、私と生きる君の生活のどこかにも起こってほしいと、私は願うのだ。君はなにに小さな幸せを見出すのだろうかと想像しながら、願う。

 

 本当に大切なものは失ってから初めて気付く、使い古された言葉のとおり大切なものというのはいつしかそこに存在するのが当たり前になり、意識しなくなっていく。逆に言うと、我々が普段意識することというのは多くが異常を発しているものである。例えば、普段はおなかに意識を向けることは少ないが、腹痛がするときはお腹が気になる、あるいは少し脂肪がついてきたと感じればお腹が気になる。大切なものが正常に大切であり続けるからこそ、それがそこに在ることが自然で、普通で、日常であり、無意識ながら安定的に恩恵を受け取るようになる。日々の暮らしもそうだ。多くの人が安定を求める。暮らしを安定させ無意識で幸福を受け取りたいと多くの人は思う。

 ただ無意識は時に怠慢へと変化する。当たり前を繰り返す日々には惰性がつきまとう。また、繰り返し続けることは恐怖を伴う。いつ終わりがくるかわからない状況で同じようなことをし続けるのは苦痛だ。

 

 だから私は居心地の良さに佇むこの苦しさが大切であることを絶対に忘れない。忘れたくないからいまの生活の中に咲く小さいけれどなにか前向きになれるようなことをひとつひとつ見つけていたい。そして、君にも見つけてもらいたい。

 

 私は願う。

 君にいいことがあるように。

 繰り返し願う。

 君にいいことがあるように。

 繰り返し続けるこの願いが当たり前にならないように。

 君にいいことがあるように。

 あるように。

 あるように。