Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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aiko「ストロー」からみる 愛のゆくえ

 恋愛が鬱陶しがられ始めて久しい昨今ではあるが、人が人を求めるというのはやはり根源的欲求なのではないかと思ってしまうことも多々だ。だから我々はSNSにアカウントをつくり、誰かをフォローし、誰かにフォローされ、情報を発信し、情報を受信し、いいねをつけ、いいねをつけられる日々を送る。

 人類が人間社会を築き共同体として生を全うする以上、なにかを求める先には必ず人間がいる。そしてウェブ2.0期を境とする人間社会のアップデート以降、我々の抱く欲求とその満たし方をも更新され、人間関係の形式までもが多様化した。つまり、恋愛それ自体がオワコンとなった訳ではなく、恋愛以外の人との関わり方が拡大したことにより相対的に人間関係における恋愛の比率が低下し、かねてより続く恋愛至上主義的なものに我々は鬱陶しさを覚えるようになったのではないだろうか。また、性自認や性的指向の垣根が取り払われたことにより恋愛の形式も多様化しただろう。

 そんな現代だからこそ、我々は“恋愛”について考えてみる必要があるのではないか。人類が“恋“と呼び、“愛”と名付けたその現象は一体なんだったのか。人間の営みの中でも最小単位の文化、最小規模のエンターテイメントとも言える人と人との交流の中でもなぜ恋愛が特別視されてきたのだろうか、いま一度振り返ってみようではないか。

 

 私は、恋愛において人々が求めているのは端的に言って「他者」であると感じている。そもそも「自己」とは「他者」を認識し、その対比として確認されるものだ。人生とは「他者」であり、他者性を追求する最たる行為こそが「恋愛」であると思うのだ。

 小説家・平野啓一郎氏は著書『私とは何か 「個人」から「分人」へ』でこんなことを書いている。

 

愛とは、「その人といるときの自分の分人が好き」という状態である。(中略)他者を経由した自己肯定の状態である。

 

 分人とは、人間とはそれ以上分割不可能な「個人(individual)」という存在ではなく、更に細かく複数に「分けられる(dividual)」存在であり、「自己」とはそれぞれの「他者」との相互作用の中に存在するものである、という平野氏が提唱する概念である。

 人間は他者を経由することでしか自分を存在させることができない。さらに経由する他者によって自己とは変わりゆくものである。そんな変動し続ける「自己」をプレイングする人生というゲームにおいて、最も自己を自己足らしめてくれる他者との関係性こそが「恋愛」なのではないだろうか。

 さらに、平野氏は同著書で、「恋」とは短期間で燃え上がるものであり、「愛」とは継続性の期待されるものであると説き、また、こうも書いている。

 

持続する関係とは、相互の献身の応酬ではなく、相手のおかげで、それぞれが、自分自身に感じる何か特別な居心地の良さなのではないか。

 

 「あなた」を反映した「わたし」でいられる瞬間の愛おしさをそれぞれが抱ける関係性、つまり「わたし」と「あなた」との間に自然発生的に生じる「共同性」こそが愛だ。「他者性」は「自己」への強い反応があると「共同性」へと変換する。そこに人が恋愛を求める理由があるような気がする。恋愛とはBoy meets GirlではなくYou & I である。

 

 恋は盲目とも言うように、「あなた」によって共同性を獲得しようとする愛すべき「わたし」にとってはすべての日常が特別性を帯びてくる。筆者の好きな和歌にこんなものがある。

 

信濃なる 千曲の川の 細石も

君し踏みてば 玉と拾わん  (万葉集 巻十四の三四〇〇 作者未詳)

 

 

 愛すべきあなたが踏んだ石であるのなら、川沿いに転がるなんてことのないただの小石であろうと宝になりうる。この「わたし」と「あなた」の共同性を築き上げる中のみで発生する美しき世界。まさに毎日がスペシャル、当たり前が輝き出し、日常だった光景が非日常へと移り変わる。これでこそ「あなた」と「わたし」の燃え上がる恋のパワーなのだろう。

 

 では、その燃え上がった恋のパワーが弱まり継続性の愛へと転じたとき、「あなた」と「わたし」の共同性が自然と化したとき、「あなた」が「わたし」を経由した分人の居心地の良さに慣れきったとき、愛はどこへ向かうのだろうか。「わたし」はなにを思うのだろうか、「あなた」になにを願うのだろうか。

 きっと「わたし」はこう願うだろう〈君にいいことがあるように〉と。

 

 

 デビューから20周年を迎える今年、その間日本のポップミュージック界の最前線でひたすらに「あなた」と「わたし」を綴った歌を歌い続けてきたaikoから、ニューアルバム『湿った夏の始まり』が届けられた。

 本アルバムで特に目を引くのは、やはりシングル曲でもある「ストロー」だろう。〈君にいいことがあるように 今日は赤いストローさしてあげる 君にいいことがあるように あるように あるように〉のフレーズが何度も繰り返され、嫌が応にも口ずさんでしまうほど印象的な「ストロー」では、「あなた」との共同性を獲得し、ある程度時間が経過した後の「わたし」の日常が歌われている。

 

 この〈君にいいことがあるように〉というフレーズ、字面だけみると前向きな思いと取れなくもないが、筆者にはどこかaikoの陰を感じてならない。曲自体も非常にリズミカルで小気味良い曲調ではあるが、決してハツラツとした明るさではなく胸の内に霧がかかったような印象を受けてしまう。軽やかながらも靄のかかった部分が奥底に潜んでいるかのようなこの感覚は、私たちが日常生活を送る中で度々感じる“マンネリ”に似たものがある。

 

 人間は慣れきったことは無意識で処理するようになるが、無意識は時に怠慢へと変化する。同じ時刻に起床し、同じような朝食を食べ、着替えをし、同じ時刻に家を出る、同じ時刻の電車に乗って年配のサラリーマンたちに押しつぶされ、同じ時刻に職場に着く、仕事の終わる時間だけは不安定で帰宅する時刻はバラバラだが、何時に帰ってこようが身体は疲れているからご飯食べてシャワー浴びてスマホを眺めながらゴロゴロしていつの間にか寝てしまう。そんな生活が習慣化し、毎日延々と同じ動作を繰り返していくうちに徐々に日常が当たり前に蝕まれ、“自分”が遠退いていくような感覚に苛まれる。自分は何のために毎日生活しているのだろうか、残りの人生もずっとこのままなのだろうか、そんなことを考えては「人生」とか「人間」とか「労働」とか「社会」とかの意味がわからなくなり、明日を生きる気力の一切を失ってしまう現代人もそう少なくないはずだ。

 

 「ストロー」ではその虚無にも似た感覚が恋人との同居生活に生じてしまう。

 

初めて手が触れたこの部屋で なんでもないいつもの朝食を 喉を通らなかったこの部屋で パジャマのままで朝食を

 

 君と初めて手が触れたのはこの部屋だったね。あれは君と出会ってから何度目のことだっただろうか、わからないけどお互いになんだかドキドキしたことは覚えているよ、コンビニで買ってきたお惣菜の味もわからないほどドキドキして結局ろくに手もつけないで、君に身体を委ねたあの日のことを……

 

 〈初めて手が触れた〉を字面どおり受け取るとして、手が触れたそれだけのことでものが喉を通らないほどの緊張感を覚えるのは「わたし」の中で「あなた」が特別な「他者」として存在しているからに他ならない。特別な存在である君との共同性の獲得を目標として過ごした日々は君と時間を共にすることそれ自体が非日常であり、何気ない当たり前の時間が特別なものに見えた。時を重ねるほどに一緒になれた私と君はついに同居することになった。これからはすべての瞬間が特別に感じられ、君と一緒にいつもドキドキしていられる、そう思った。

 だが、一つ屋根の下で君と過ごす日々は時間を経るごとに新鮮味が薄れ、当たり前になり、すぐそばに君がいるだけではドキドキなんてするわけもない。だから私は当たり前のように君の分も朝食をつくる。君も朝目が覚めると、パジャマのまま食卓へ座り、テレビから流れるワイドショーに気を取られながらなんでもない朝食をなんでもないように食べる。「わたし」と「あなた」が共同性を手にしたいま、同じ空間で同じ相手を前にしてごはんを食べることすらできないくらいに緊張していた「わたし」と「あなた」はもう存在しないのだ、愛は“燃焼”ではなく“継続”だ。

 

寝癖ひどいね 行ってらっしゃい 小さくさようならと手を振る 明日も君の笑顔を見られますようにと手をふる

 

 お互いを意識して些細な動作にすらも緊張していたあの頃の私たちはもういない。君はいま、私を目の前にしてもパジャマのまま寝起きの顔を平然と見せてくれるし、寝癖を恥じる素振りも見せない。昔は外を歩いていても窓ガラスに自分が反射するたびに髪型を気にしてた。

 忙しなく支度を終えた君はいつもの時刻に出勤する。君の帰りはいつも遅いよね、残業頑張ってるんだよね、そうわかっているから「行ってらっしゃい」と言う胸の内で「さようなら」とつぶやく。今日の君にはもう会えないとわかっているから「さようなら」とつぶやく。明日の朝、パジャマ姿で寝癖のついた君とまた会えますようにと、そのわずかな時間に君の笑顔を見られますようにと、私は手を振る。君は、次に私と会うのは明日になるということに気付いているのかな……

 

 〈君にいいことがあるように〉という私の抽象的な願いは、君の生活の具体像を描けなくなったことの表れでもある。君と一緒になってからは君と一緒にいる時間が減ってしまった。私のいないところで君が誰と関わって、どんな表情をして、どんな言葉を発して…そんなことを知るすべなどなにひとつない。それでも私にとってかけがえのない存在である君が、私のいないところで過ごす君の生活が少しでもいいものであってほしい、だから私はただただ願う、君にいいことがあるように。

 

瞳閉じて書いた日記 薄くて強い覚え書き ずいぶん色が変わったなって見えない心が愛おしい

 

 ふと、昔書いた日記に手を伸ばす。記された出来事はどれもありふれていて、特別なことはひとつもなくて、もしかしたらいまの生活ともあまり変わらないのかもしれない。でも、その文字からは幸せな私たちの様子が浮かび上がってくる。なんでもない朝食を一緒に食べただけのことがどうしてこうも嬉しそうに書かれているのだろう。一挙一動に幸福を感じていたあの頃の私と君の非日常は、いまや私たちの日常になった。正直、いまの生活は出会った頃より悲しくて寂しいかもしれないと思うこともある。でも、日常に君がいてくれるからいまの私が存在する。

 

お皿に残る白い夢を君の口に入れてごちそうさま 大きな小さい半分に慣れた頃思うこと

 

 「わたし」と「あなた」が「わたしたち」になることを夢見たあの頃は、ふたりで夢を追いかけた。「わたし」と「あなた」が「わたしたち」になったいまは、私は「わたしたち」としての私の夢をみて、君は「わたしたち」としての君の夢をみる。私の夢が君の夢であり、君の夢が私の夢であったあの頃とは少し違う。

 

君にいいことがあるように 今日は赤いストローさしてあげる 君にいいことがあるように あるように

 

 aikoは“赤いストロー”についてこんなエピソードを語っている。

 

赤色のストローを引いた時なんだか嬉しくて『小さいけどなんか前向きになれる嬉しい事が好きな人にたくさん起こったらいいな』と思って作りました 

 

news.ponycanyon.co.jp

 

 赤いストローとは、すなわち愛する「あなた」が踏んだ小石のようなものである。小石自体に価値はないが「わたし」が「あなた」への想いを小石にも付与することでそれは「わたし」にとっての宝石となる。つまり、赤いストローを引いた時の嬉しさはaikoだけのものなのだ。〈君にいいことがあるように〉と願いながら赤いストローをさす行為は私にとっては小さな幸福であるが、君は赤いストローになにか思い入れがあるわけではないし、赤いストローをみて今日も頑張ろうと思うわけでもない。赤いストローは「わたしたち」の幸福ではない。ただ、君と生きる私の生活の些細な嬉しさのようなことが、私と生きる君の生活のどこかにも起こってほしいと、私は願うのだ。君はなにに小さな幸せを見出すのだろうかと想像しながら、願う。

 

 本当に大切なものは失ってから初めて気付く、使い古された言葉のとおり大切なものというのはいつしかそこに存在するのが当たり前になり、意識しなくなっていく。逆に言うと、我々が普段意識することというのは多くが異常を発しているものである。例えば、普段はおなかに意識を向けることは少ないが、腹痛がするときはお腹が気になる、あるいは少し脂肪がついてきたと感じればお腹が気になる。大切なものが正常に大切であり続けるからこそ、それがそこに在ることが自然で、普通で、日常であり、無意識ながら安定的に恩恵を受け取るようになる。日々の暮らしもそうだ。多くの人が安定を求める。暮らしを安定させ無意識で幸福を受け取りたいと多くの人は思う。

 ただ無意識は時に怠慢へと変化する。当たり前を繰り返す日々には惰性がつきまとう。また、繰り返し続けることは恐怖を伴う。いつ終わりがくるかわからない状況で同じようなことをし続けるのは苦痛だ。

 

 だから私は居心地の良さに佇むこの苦しさが大切であることを絶対に忘れない。忘れたくないからいまの生活の中に咲く小さいけれどなにか前向きになれるようなことをひとつひとつ見つけていたい。そして、君にも見つけてもらいたい。

 

 私は願う。

 君にいいことがあるように。

 繰り返し願う。

 君にいいことがあるように。

 繰り返し続けるこの願いが当たり前にならないように。

 君にいいことがあるように。

 あるように。

 あるように。