Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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「回=回」は核P-Modelなのか?

 

平沢進の核P-Model名義の最新作「回=回」が投下されて一ヶ月が過ぎたが、概ね肯定に捉える感想が溢れる一方で、「これが本当に核P-Modelなのか」という疑念は軽く提示されたものの、程なくライブの話題が中心になり、その疑念は未だ真剣に顧みられてはいない。簡潔に説明すると、本作は従来の核P-Model路線は弱まり、平沢進名義の作風が侵入している。ライブの選曲もその時の名義ごとにしっかり線引きがされていただけに、この混合は彼のキャリア上では十分な事件である。

別に自分は彼の音楽や言動を貪るように掘り返しているようなマニアではないが、平沢の半世紀以上に及ぶ音楽遍歴において、新譜がいかなる位置に座することになるのかをこの機会に真剣に考えてみたい。

 

そもそも「核P-Model」とは何なのか。

今までの「核P-Model」名義は「イラク戦争」「3.11」という外的世界への平沢の反応だった。マスコミや政治の体たらくっぷりに憤りながらも、赤裸々に政治的な歌詞を書くぐらいなら豆腐に頭をぶつけて死んだ方がマシと思っている(勝手な想像)平沢に許されたのは、解散したはずのP-Modelを「太陽系亞種音」サーガの一部分に定義づけて新たな名義で再出発させることだった(なお、双方ともトリガーとなる事件の後に平沢進名義のアルバムを1枚挟んでいるが、壮大な茶番を仕込む準備期間であろう)。

その結果生まれたのが「嘘つけP-Modelでもここまで高圧的じゃないかったぞ」な「ビストロン」であり、「ああ、P-Modelやりたいんだな」という「 гипноза 」であり、あるいは「背後から襲われて気絶している間にパソコン勝手に弄られて垂れ流された」という回りくどい前口上の後、露骨な原発批判(あるいは思考停止的に原発NOしか言わない人たちへの批判) を繰り広げたステルスマン名義の「原子力」だったりした。

 

HIRASAWA三行log – 「胸踊る」

Phantom Notes - 「時震」

平沢自らのネット上での発言は厖大なアーカイブとして公開されていてとても追いきれないが、彼の思想が垣間見えるものを引っ張ってきた。基本的に彼は体制による隠匿と民衆の勝利を信じている。非常にニヒリスティックだが。

 

じゃあ今回平沢は何か怒り狂っている対象があるのか。「否」とは言えないが、9.11の後にファンとメディアの話を巡って喧嘩になって掲示板閉鎖にもつれ込んだあの平沢と今日日の平沢は、内面がどうかはともかく攻撃性が大分と違う。むしろ指摘したいのは、「最近ドラムなしのライブの方が少ないのでは?」という音楽環境面での変化だ。

前作「 гипноза 」でかつての右腕であった田中靖美にラブコールを送った後も、minus(-)やヒカシューへのゲスト参加や第9曼荼羅での元バンドメンバーの上領亘との共演などの経験を通し、生バンドから離れた90年代後半以来かつてなく身体的な音楽を体験している平沢の胸中にP-Modelへの郷愁が湧き上がったことは想像に難くない。

 

そう言う意味では「核P-Model」を再始動させるお膳立ては整っていた。ただし、彼がビストロンの頃から失ったものがある。「声」だ。

別に声そのものが老け込んだり劣化した訳ではなく、ライブではビストロン時代より高音の音程が取れるようになっていて技巧的な面ではむしろ進化している。だが、ビストロンで聞くことのできた荒々しい叫びを出すための声量はない(恐らくは2009年の「点呼する惑星」辺りが分水嶺か)。今の平沢に信者を平身低頭させる説教は出来ても、道ゆく第三者を巻き込んでアジテートする演説は出来ない(先日のライブで「Big Brother」を生で聞いたが、声の覇気が大分と衰え、物々しいコーラスの同期におんぶしている感は否めなかった)。

 

そこで着目されたのが「平沢進」としての音楽性だ。ストリングスアレンジアルバム「突弦変異」「変弦自在」およびライブ「東京異次弦空洞」でのP-Modelと平沢進の統合が図られた後、出囃子集という体裁でP-Model〜平沢進〜核P-Modelの全キャリアが一堂に会した「導入のマジック」とそれに伴うライブ「HYBRID PHONON」で1980年代から2010年代までの平沢進の作品が一挙に演奏され、既に彼の名義間の領域はほとんど消滅していた。

その結果、まろやかな声にあった近年の「平沢進」名義での作風と純粋な音楽体験としての「P-Model」のバンドサウンドの再現との融合を図った、それでも「核P-Model」と名付けるしかない奇妙な新作が産み落とされたのである。

 

CD帯を見ればコンセプトの変化は一目瞭然である。 

ビストロン=「類似品にご注意ください! これはP-MODELではありません。」

回=回=「中期〜改訂期をまたぐP-MODELの亡霊とソロプロジェクトの不均衡的整合のモンスターが出会う驚異の電子POP」

 

それを証明する1番分かりやすい特徴はストリングスの解禁だ。シンセストリングスなら「ビストロン」(曲名)でも使われていたが、本作の「幽霊飛行機」では、「現象の花の秘密」で全面起用された「Hollywood Strings」 らしき本物のオーケストラのサンプリングを利用している。これは単純な機材の変化もあるかもしれないが、ならば何故「Hollywood Strings」導入後の「 гипноза 」では用いられなかったのか。

 それと並ぶか次点としての本作の特徴、それはギターの大躍進である。全曲にギターが入っているという点でもそうだが、表題曲と先述の「幽霊飛行機」ではギターがリフを担っているだけでなく、サーフロック調の音楽性が大々的に取り上げられている。別に彼のサーフロック好きは今に始まったことではなく、「美術館で会った人だろ」のThe Atlanticsの「Turista」の引用や「聖馬蹄形惑星の大詐欺師」「Wi-SiWi」などで自分の音楽に昇華させる試みは断続的になされていた。ただし、飛び道具としてではなくアルバム全体でサーフロック要素を滲ませているのはおそらく初めてである。

 

他にも、「遮眼大師」のスネアの生ドラム風の音色や平沢進名義でタイアップしてきた今敏作品への提供曲「OPUS」など、指摘できる点はまだあるが、アルバムの歌詞面についても触れておこう。

 

ブックレットの冒頭に「無頭騎士からの伝言」なる本作全体のメッセージを平沢節で語った短い声明があり、簡単にまとめると「本来の人間性への回帰」がコンセプトのアルバムである。最終曲の題名である「HUMAN-LE」という制限された状態を脱してHUMANに戻る、というストーリーが今回平沢の意図するところらしい。これは平沢がずっと試みてきたテーマであり、阿呆どもに踊らされた民衆を啓蒙する核P-Modelのコンセプト、ひいては「ビストロン」の裏主題とも言える「1984年」の世界観にも合致する。

 

「無頭騎士の伝言」(こっちは曲)で、平沢は「鋭敏に時は割く 永遠にキミを割く」と、「HUMAN-LE」では「明日より遠くキミは居て」と歌う。

「今」を生きる我々にとって、過去の自分と未来の自分は今の自分とは同じ存在であると同時に、別の存在である。何故か。時間は直線的であり、遡及不可なものであるからである。それこそ、永遠に交わることがない概念として。だが、音楽においては「録音」という再現性のある行為を行うことにより、過去の自分をいくらでも蘇らせることが出来る。「回=回」ではP-Modelと平沢進が鳴らしてきた音を「核P-Model」と名乗って鳴らすことで、過去と今の混合が発生した。それを未来の平沢が拾い上げて、新しい平沢進の音楽へと発展させた瞬間、「今」に過去と未来が回帰し、「回=回」は成立する。

 

総括すると、このアルバムは「核P-Model」名義で本来行ってきた蒙昧の人々に対する真実への回帰だけではなく、平沢進自身にとっての回帰も試みた作品であり、だからこそ彼のキャリアを跨ぐ「核P-Model」という名義で出さなければならなかったのである。このアルバムが成功であるかは、将来の平沢が本作の意味を理解して「回帰」するかどうかにかかっている。

 

平沢進は死なない。「回=回」を聞けばいつだって「彼」は戻ってくる。