Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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『映画 聲の形』で小学校教育を考える

 

 

 「みんなで立ち向かう」


 2010年代のアニメシーンにおける重要人物のひとり、山田尚子氏が指揮を執る2016年公開のアニメ映画『映画 聲の形』であるが、本作品は扱う題材にいじめ、障害、自殺などが含まれており、これらが持つ“重さ”によるものかはわからないが、ウェブ上で評価をみても賛否が分かれる作品のように思える。

 本稿では『映画 聲の形』を観た人はもちろん、観てない人にも本作品の魅力を伝えることを目指し、精神状態が終わっているときに本作品を大号泣しながら観て牛尾憲輔氏(本作の音楽を担当)に感謝を捧げた私が、本作品においてひとつの問題提起となっている小学校教育のあり方について考察していく。


 まず、小学校について考えていこう。

 おそらく公立の義務教育機関は、学校機関の中でも最も多様性に富んでいると言っても過言ではない。高校や大学は、偏差値による区分で整理されるため各人のコミュニケーションコストも低く、またアイデンティティの形成がされていることから個人個人の軸もある程度定まっている。一方、小学校や中学校(特に公立)では集合単位が地域であるため個人の能力差や成長差、家庭の格差などに幅があり、さらには自我も形成段階の多感で不安定な時期でもある。

 多様性の高い集団である義務教育機関で何を育まれるかといえば、パラメータにバラつきのある発展途上なヒトという存在を「人間」という枠組みに収納させる、つまり社会における規律を教え、規範を遵守することが正しさであり、空気を読むことが大人であるということが、学級という集団での適切な過ごし方を通して肌感覚で学ばせられる。近代教育が目指してきたのは、いわば兵隊の育成であった。

 それを象徴するのが冒頭に書いたスローガンだ。これは『映画 聲の形』の主人公・石田将也が通う水門小学校6年2組で掲げられる学級スローガンである。私自身も小学校や中学校で年度当初に学級でスローガンを作成した覚えがあるが、だいたいどこのクラスも将也たちと同様「みんなで手を合わせて頑張ろう」といった旨を、表現を変えて掲げていたと思う。つまり大事なのは「個人」ではなく「みんな」であり、手をつなぐこと、輪をつくること、協調し合うことを重んじるようなマインドセットを年度当初に整えさせられるのだ(しかもこのスローガンは教員による押し付けでなくみんなで決めたものという体を成すから恐ろしい)。


 そんな小学校で『映画 聲の形』のキャラクターはどんな過ごし方をするのか。

 将也のクラスは「こういうクラスメイトいた気がする」という記号を持ったキャラが揃えられている。

 例えば、将也はやんちゃな暴れん坊だし、その取り巻きにはパーカーの袖を伸ばして着るクールを気取る少年(島田)や肥満体型でヤンキー風の少年(廣瀬)がいたり、女子生徒のボス格である美少女(植野、名札をTシャツの下部に付ける姿が実に愛らしい)や八方美人な優等生(川井)がいる。

 そこへ転校生として加入してくるのが本作品におけるヒロイン・西宮硝子だ。彼女は先天性の聴覚障害を抱えており、会話も筆談や手話で行う。そして、日々退屈をこじらせる将也は西宮の登場に目を輝かせる。


 先ほど定義した本稿における小学校の学級は一つの箱であり、箱の外部から飛び込んできた転校生という存在は異物として扱われやすい。箱の中で構築済みのカーストを揺るがす転校生の登場は学級の安寧に関わる事態だ。

 ただでさえ転校生という異物である西宮は聴覚障害をも抱えている。そもそも「障害者」という概念自体が近代が築いた「人間」という像、つまり「普通」に対立する存在である。ひとりひとりが「普通」を目指すことでみんなで仲良くしよう、を叩き込まれる小学校では、みんなと同じ感覚で会話が成り立たないのは違和感でしかなく、転校生かつ聴覚障害のある西宮が相当浮いた人物であることは明らかだ。


 その西宮の加入によってクラスで何が起こるのか。将也を中心とした西宮に対するいじめである。

 いじめの内容は補聴器を紛失させる、筆談帳に罵詈雑言を書き込む等さまざまであり、西宮から手話を教わり仲良くしようとする人物(佐原)もまたクラス内で目立ってしまい、クラスでの冷遇により不登校に陥ってしまう。

 西宮には教員からのフォローもなく、担任の先生はみんなと同じように授業を受けさせるし、西宮母からの連絡が入るまではいじめを見過ごす。途中、手話教室の先生によるアプローチが入るシーンがあるが、みんな一緒を目指す集団においては却って浮きが目立つため、トップダウン方式で個人への補助を行うだけの手段は悪手でしかない。さらに言えば、佐原の不登校についてはスルーされている。


 手話の先生がくる4月16日の時間割りは次のように描写されている。


 一時間目:国語「カレーライス」

 二時間目:書写「思いやり」

 三時間目:道徳「支え合うこと」

 (以下略)


 国語では小学生の教科書ではお馴染みの作品「カレーライス」を題材に大人からの一方的な圧力に対する子どもなりの違和感を考えるはずだし、書写では「思いやり」の筆記を経て自分なりの思いやりを考えるはずだし、道徳では当たり前のように使用している「支え合う」ことについて改めてディベートするはずである。しかしそんなことは建前でしかなく、重要なのは先生の言うことに従い、波風立たせずおとなしく授業を受けることであり、授業で本来学ぶべき目的など近代学校教育においてはどうでもいいことなのだ。


 将也は決して西宮が嫌いでいじめ行為に及んだわけではない。これはのちに高校生となった将也が自身で気づくことでもあるが、当時の将也は西宮に純粋に興味を持ったが幼さゆえに興味の対象にどう接したらよいのかわからなかったのだろう。

 これは自身の感情に対する解像度の問題だと思う。例えば、ツイッターにも「死にたい」と投稿する人が頻繁に見受けられるが、その「死にたい」という感情の解像度を高めれば真に死にたいのではなく「ひどい失敗をしてしまいこの先が不安」なのかもしれないし「友達がいなくて寂しい」のかもしれない。これはいわゆる認知行動療法の類だが、大人ですら感情を見誤って過った行動をとってしまうことがあるのだ。

 自身の感情を整理すること、自身の感情に即した行動を取る自由があることが教育によって学ぶことができていたのなら将也は始めから西宮との対話を選択できていたのかもしれない。だが、担任教師ですら西宮との対話を行えない状況で対話を学ぶことは間違いなく不可能だった。


 いじめっ子に対し、イジメを犯したお前が完全なる悪だと制裁を行うのは簡単だ。しかし、イジメを生んでいるのは個人ではなく環境であることには皆薄々気づいているのではないか。鈍感であることが大人の姿だと自らに言い聞かせ、本来課題に設定すべき点に目を瞑り、わかりやすい悪に責任を負わせる社会に対する改めての問題提起。ダイバーシティが繰り返し訴えられるこの現代で変わらなければいけないのは教育方針(=大人が持つ人間観)ではないのか。『映画 聲の形』の序盤、小学校時代のシークエンスからは、そんな訴えが聞こえてくる。


 『映画 聲の形』はダイバーシティインクルーシブを一テーマとして扱った作品であり、本稿では小学校時代の描写を例に本作品での問題提起を考察した。本作では問題提起のみに止まらず、では小学校はどうあるべきなのかを前向きに考える余白が示されている。

 それが、将也の姪であるマリアの存在だ。

 登場人物が全員だらしない『映画 聲の形』の中でも唯一絶対の天使として少ない登場回数ながら圧倒的存在感を示す保育園児・マリアは、将也の姉と筋肉隆々なブラジル人男性・ペドロとの間に生まれた愛らしい女の子である。将也たちはマリアをかわいがるし、視聴者もマリアのかわいらしさに身を悶えさせることだろう。

 では、このマリアが小学校に進んだらどうなるだろうか。明治以降の兵隊育成型教育では、日伯のハーフで肌の黒いマリアがそれだけを理由に不遇な扱いを受ける可能性は、正直に言ってかなり高いだろう。

 『映画 聲の形』によって時代遅れとなった小学校の環境を改めて突きつけられた我々に与えられた使命はマリアの笑顔を守ることなのだ。


 多様性とはなにか。大人とはなにか。教育とはなにか。

 私は『映画 聲の形』とともに社会のあり方について考えながら、牛尾憲輔氏に感謝を捧げ続けたいと思う