Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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「ソナチネ」の凄み

「北野武」と言われてあなたは何を思い浮かべるだろうか?

 

活動歴の長い人物であるため、人によってイメージはまちまちだろうが、概ねビートたけしとしての破天荒な人物像を想定するところではないだろうか?

自分もその一人で、ふとした気まぐれで彼の監督作品「ソナチネ」を見るまでは芸人としての彼を認識していた。しかし、「ソナチネ」によって彼への印象はガラリと姿を変え、カミソリのような感性を持った強烈な個性の持ち主として彼を見るようになった。

以降、彼の作品を見ていくにつれ、日本人の多くは彼を誤解しているのではないかという疑惑が確信へと変わっていった。間違いなく彼は一流の映画監督であり、そしてパブリックイメージでは想像もつかないレベルの暗愁の持ち主である。彼の死生観は「自殺はもってのほか。命を大切にしよう」「人の命は皆平等」といった綺麗事とは真っ向からぶつかる劇薬で、そんな人間がスタジオでバカやって周りの若い芸能人を困惑させているのである。

 

今回は、自他共に認める最高傑作である「ソナチネ」の解説を中心に、彼がいかに特異な才能の持ち主であるかを浮き彫りにし、欧米志向のサブカル好きからはやや等閑視された現状へ異議を唱えていこうと思う。

 

 

 

 

 

まずは「世界のキタノ」という称号の説明に遡ろう。

実は、「世界のキタノ」と呼称されている「世界」とはハリウッドのことではない。ヨーロッパである。ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を獲得し、カンヌにも出品はしているが、アメリカの方向での売り込みはあまりなされていない。

「「世界のキタノ」と言っても、少し海外で受けたのを日本のマスコミが大げさに取り立ててやいのやいの言ってるだけで、ハリウッドにまでは受け入れられなかっただけだ」と言ってしまったらそれまでだが、北野武自身、ハリウッドの分業体制=監督の権力の弱さをあまり良く思っていないことを度々明言しており、そしてなにより、作風がヨーロッパのアート気質なものに近い。一々やたらと長いシークエンス、時折挟まる抑揚のない会話、断片的にしか何が起こったのか示さない演出。

作品を重ねるにつれてアート要素は薄まり、「アウトレイジ」サーガに至ってはもはやただのヤクザ抗争映画に成り下がった(僕は好きです)が、初期の彼の映画は尖りすぎていて、興業的に失敗しながらも、評論家内で絶賛されるという、芸能人のアーティスト気取りの産物とは正反対の結果を生み出している。そんな彼の最高傑作が「ソナチネ」である。

 

 

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この画像だけで、なんとなく非商業的な香りを覚える方もいるのでは

引用元:cinematerial.com

 

あらすじ

北島組傘下の村川組組長の村川(ビートたけし)は北島組幹部の高橋(矢島健一)の命の元、沖縄の阿南組と抗争している友好組織の中松組への手助けを命ぜられ、子分のケン(寺島進)や片桐(大杉漣)を引き連れて石垣島へと向かう。到着早々阿南組に襲撃され、一行は用意された隠れ家へと身を潜める。手助けといっても出て行けば襲われるので特にすることもなく、村川は近くの浜辺で男に襲われていた女、幸(国舞亜矢)をチンピラから救ったのを機に交流を深め、ケンは阿南組の良二(勝村政信)と意気投合し、退屈な時間を浜辺で潰し、一夏を過ごすのだが、そこにも殺しの手は迫り……

 

…これだけ読んで心が惹かれるだろうか? びっくりするぐらいありきたりである。実はここまでフツーな話を用いるのはキタノ作品では結構あるあるで、彼の強みはシナリオそのものの独自性ではなく、いかに普通の話を再構築するかというところにある。

そんな彼の再構築の特異性を見ていこう。

 

 

徹底的なミニマリズム

 

 これはキタノ映画のほぼ全般に言える特徴だが、彼の映画は最小限の事実で最大限の情報量を語る。

以下の動画にあるが、彼は映画の撮り方について、対局後の駒の配置を見ればそれまでの戦いがどういうものだったか分かる将棋を引き合いに出し、1つの絵でそこまでの過程が見えてくるようにを撮るべきだと主張している。商業映画にありがちな、「黒幕が主人公の見えないところでほくそ笑む」「頼んでもないのにやたらと解説する敵役」といった分かりやすい演出はなく、いきなりズバッ、あるいは間接的な行動で全てを伝える。

そういうわけで、キタノ映画はぼーっと見ているだけでは話が大して進まないので地味だな、と思っていると一気に展開が変わる。その手の映画に慣れていないと不親切な演出なのは確かだが、長閑なシーンから一瞬で血の海に変わる様は見ものである。

また、シークエンスに限らず俳優の演技も同様にミニマムであり、ヤクザ映画の売り言葉に買い言葉な展開はこの時期のキタノ映画ではほとんど見られない。組への上がりの支払いを渋る雀荘店主を村川が恫喝する冒頭のシーンが例として分かりやすいが、「テメェ殺すぞ」だとか「バカはテメェじゃねえか」だとか不穏な言葉が飛び出てくる割に口調は淡々としていて、怒声でとりあえず観客の気を惹くという意図はゼロである(この喋り方は彼のヤクザ稼業への倦怠感を示す演出でもある)。そもそもセリフ量自体、初期のキタノ映画ではかなり少ないが、演技に関しても大根演技かと思うぐらいに抑揚のないfセリフなりアクションなりが特色である。それも全ては映画全体の濃淡のために仕組まれた演出の1つである。

更に言うならば、彼の決め台詞「バカ野郎」の使い方もうまい。バラエティー番組でビートたけしとして使っている以上に、キタノ映画では「バカ野郎」が連発されるが、場面場面でそのニュアンスは異なる。本当に相手を罵倒する「バカ野郎」だったり、相手に親しみを込めての「バカ野郎」だったり、非常に感動的な「バカ野郎」だったりとその意味合いは多岐に渡る。これも彼のミニマリズムが活かされている好例だ。

 

 

「キタノブルー」と色彩感覚

 

「キタノブルー」はキタノ映画に触れたことがない人でも聞いたことがある人は多いだろう。 ソナチネは夜の場面が続いているため、他のキタノ映画よりもかなり暗いのだが、他の作品でも彼の用いる青は従来の青より暗い。「夏の空」「海」などの生き生きとした「陽」を表す方の青ではなく、どちらかというと「静脈」「血の気の引いた顔」といった、静謐で「」を表す方の青である。

それを象徴するかのように、キタノブルーの炸裂するシーンではよく殺人が行われる(全てのシーンでではないが、本作ではとりわけ顕著である)。夜明け前のようでいてどこか非現実的な明るさは、此岸と彼岸を繋ぐ生死の境目の世界を思わせる。

また、どこかを歩く長回しのシーンでもキタノブルーはよく見られるが、彼の徒歩シーンは大概場面と場面の繋ぎ、つまりは緊張と緊張の合間の弛緩を促す境界的役割を果たす。そこにどこか醒めた色合いのキタノブルーが差し込まれることで、彼らがどこか遠い世界にいることを匂わせ、映画の中では比較的現実世界に近いシーンであるにも関わらず、幻想的で退廃的な空気を漂わせる。

まさにミニマムかつマキシマムな情報量を有した演出技法である。色彩を演出に用いるのはゴダールなどにも見られるテクニックではあるため、彼なりのオマージュの一環とも言えるが、固有名詞を産み出すほどの絶妙な青みは、彼オリジナルの演出方法と言っていいだろう。

 

この予告編でも一瞬だがキタノブルーを確認することが出来るが、闇へと飲み込まれそうな色合いの青である。

 

劇的な演出

 

前述した二つの特徴を更に展開して言うと、本作ソナチネはとりわけ強烈な演出が目立つ。

下に貼った動画で抜粋されているのは、村川たちに堂々と歩み寄ってきた殺し屋が村川の子分のケンを殺して悠然と去っていく一部始終を、なんら装飾的な演出をすることもなく淡々と映しただけのシーンだが、ここでも彼のミニマリズム、色彩感覚は縦横無尽に駆使されている。

それまでの流れを解説すると、阿南組からの襲撃以降、村川たちは隠れ家に案内され、近くの浜辺で「ぼくのなつやすみ」よろしく子供じみた遊びを延々とやっている。ヤクザであることを忘れたかのように遊ぶ彼らを淡々と映す映像が続き、間延びしまくりにしまくった挙句、この突然の銃声が常夏の浜辺の空気を切り裂く。

キタノブルーとは違い、石垣島の空と海という生の源である「」を背景に、子供から大人への順当な成長に失敗したヤクザたちが、現実逃避の歪な「」の空間で遊んでいる。そこに前触れもなく殺し屋が侵入し、一筋の「」とともに「」がもたらされる。

この動画だけだと不可解なまでに動かないケンと村川のリアクションに疑問を持つかもしれないが、本編をここまで見てきた人間は、ほのぼのとした遊びに長々と興じてきた彼らと同様に突然の死の香りに対処できない。無邪気に遊びに興じる中盤のシーンは、間延びと見せかけて実はここでのインパクトを強めるための伏線だったのである。

他にも、全編で活躍する久石譲の音楽がここぞという山場で霧散消失したり、バイオレンスの中に笑いを仕込んだりと、急激な変化、強烈な対比を示す演出によってキタノ作品はトラウマ級のインパクトをわれわれに植え付ける。

 

 

 

 

虚無的な死生観

 

これこそが「芸人がカメラ持ってる」という認識を打ち砕く決定打だと思うのだが、彼の初期作品、特にソナチネまで=バイク事故で生死の境を彷徨うまでで見られる死生観は、思わず唸ってしまうぐらいにニヒルで醒めている。

劇中で、村川が幸に向かって「あんまり死ぬの怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだ」と表面的には矛盾した発言をしているが、まさに初期キタノ作品を象徴するセリフだ。彼らは誰かを殺せば殺すほど、自分も死の側に引き摺りこまられていることを自覚し、恐怖を覚えるのだが、あまりにもグッと近寄ったせいで、逆にその暗がりに魅了されている。どす黒く汚れた人間である自分をも包み込むことができる暗黒の「死」。

 

フロイトでいうエロスとタナトスの構造がぴたっと収まる。人は生に対する欲望を持っている一方で、死に対しても積極的な姿勢を心のどこかでは持っている。

死にたくないけど、死にたい

圧倒的な矛盾が、赤と青、綺麗な青と薄暗い青、幼児性と死といった対比の中でグロテスクなまでに鮮やかに描き出される。否、「死」の強大さの中では全ては帰納されるのだ。

彼はこの映画に対して「死を通して生を描こうとした」と説明しているが、主人公の死に向かって生き続ける様は決して命の尊さだとかそういうものを語るのではなく、死をすぐ隣にただ存在するものとして物語る。キタノ映画は大体主人公のビートたけしが自殺にしろ他殺にしろ死を迎えて終わるが、それは信賞必罰や死刑論者のような「殺したのだから死ぬべき」というような単純な話ではなく、「あまりにも死に近づいた生者は死者と紙一重」というメッセージを有しているように思えるのだ。

言葉にするとどうにもまだるっこいが、このニヒルな死生観を彼はわずかなセリフと研ぎ澄まされた演出で表現する。このセンスたるや、日本人監督が珍しく海外でウケたとかそういう次元の話ではない。

 

 

 

以上でソナチネをメインとしたキタノ映画の素晴らしさのプレゼンはおしまいである。

ちなみに本作はそれまで作ってきたキタノ作品があまりにもアート気質で、業界人以外からは黙殺されてしまい、最後にやりたいようにやってそれで売れなかったら映画業は終わりにしようという気持ちで作っただけあって、全く客が入らなかった。

その後、バイク事故で死にかけたのを境に作風が生に近寄るのだが、事故直前は、プライベートな問題に加え、映画が世間的に認められないことへの鬱憤で一種の鬱状態になっていたらしく、この「ソナチネ」を作っていた頃、主人公の村川と同じく、北野武自身もかなり死に取り憑かれていたのではないかと思うと、ゾッとしたものがある。

言わば逃亡に近い石垣島ロケでの楽しそうなメイキング映像を見ていると、歪な「生」とは当時の北野自身を取り巻く状況のことだったのかもしれない。そう考えると、撮影後のバイク事故から生還したのは奇跡と言っても過言ではないだろう。

退廃の匂いが漂う「ソナチネ」は、撮影者自身の幻影でもあり、撮影者を蝕む恐るべき死への誘いでもあった。その上でこの作品を見ると、我々が対峙するものは、1文化作品が提示するものとしては手に負えないぐらいに強大で深遠なる闇であることに気がつくだろう。