Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

「界隈」にぶっちゃけ息苦しさを感じてるクイーンのオタクたちへ

 

 

こんばんはべしちゃんです。私のTwitterから来てくれた人、”べす”です。

 

まず自己紹介なんですが、2011年リマスター再販のちょっと前くらい、中学生の頃にクイーンにハマりファン歴はざっくり10年くらいですかね。それまでは普通に漫画やアニメでオタクをしつつ邦ロックのファンをやっていました。

そしてクイーン由来で洋楽にハマり、古今東西色々聴いて今に至ります。

 

ハイいきなりイエローカード!!

 

まず今のクイーンファンの内部事情というか、Twitterで色々見ていたところどうもファン歴マウンティングというものがあるみたいですね。年数がなんぼのもんじゃい!ってね、そんなのマジで最悪ですね。

 

なんか純粋に「クイーンファン」やるのって息苦しくないですか?

特にいわゆる新規の方、どうですか?

 

 でもごめんなさい、先にファン歴言っておきたかったのはワケがあり、私の青春時代の一幕にこんなエピソードがあるからです。

まずはそのお話から始めることにして、古参でも新規でもない微妙な位置にいるオタクが「クイーンファン」を名乗る息苦しさについて考えてみました。よかったらお付き合いください。

 

 

 

地獄のカラオケオフ会

私がまだ高校生だった頃、同世代の友人のクイーンファンがオフ会を開催。頭数にカウントされた私は、サマソニ2014にてクイーン+アダムランバートを見た直後またスタジオアルバムを聴き返していた時期だったこともあり、二つ返事ですぐ参加。

同世代の友人主催ということもあり、割とライトな会かな?と思っていたものの、待ち合わせの最寄駅には黄色いジャケットと白黒ダイヤ柄の服に身を包んだお姉様方が。多分参加者やろな…気合い入ってんな…となんとなく思っていたらやはりそう!集まったのは古参ファンの方々が数人と年下の男の子が1人。

そして我々はカラオケへ。各々グッズや自主制作のコスプレ衣装や王冠(!!)を取り出し和やかに会は進行、私の予想をはるかに超えるディープな会に。

しかし流れが変わったのは男の子がデンモクを手に取り「The Show Must Go On」を予約した瞬間!!

場の空気がなんとなく変わったのを感じました。流れるイントロ。歌う男の子。鳴り止むマラカスやタンバリン。流れ変わったな。男の子は高らかに歌い切りました。するとお姉様が一言、

 

「アタシその曲フレディの命日にしか聴かないって決めてるんだよね(怒)」

 

若き日の私はちょっと無理すぎて早退しました。

 

 

どうでしょうかね。今思えば正直気持ちはわかるんです。当時は理解が及ばずギブしちゃった私が悪いです。そりゃ思い入れが強ければ強いほどあの曲聴くのはしんどいの、ファンの方ならよく分かると思います。

それに私はBjorkの大ファンでもあるんですが、「joga」(Bjorkが故郷アイスランドの雄大かつ暴力性も併せ持つ自然の圧倒について歌っている曲)が軽率にテレビで「キレイな景色ですね〜じゃけん守っていきましょうね〜」みたいな文脈で流れた時は腹たってテレビ消しましたもん。

まあそれに似たような気持ちで放った軽い言葉、それでも己の中での確固たる価値観に基づいた発言だったのでしょう。姉貴の考えを否定はしないし罪はないと思う。

いやまあそれでも良くないよね。価値観の押し付けは思っててもやっちゃアカンよ。古参も新参もクイーンもなにもそこは関係ありません

 

 

クイーン原理主義者は一体どこから

では何故こんなことが起こり得るのか?

映画からクイーンを再度、または初めて聴き込んだりそれでいてSNSを使う人ならなんとなく肌で触れた空気かと思うのですが、

何故かクイーンは原理主義者を産みがちなんです。

(おそらく先述の姉貴の発言もある一定の層にとっては「そーだそーだ!」と同意を得られてしまう、そういう価値観の人たちが持つ集合意識なのです)

そのカラクリについては、作品の質はもちろんメンバーのキャラクター性、エピソードのドラマティックさ、フレディマーキュリーの非業の死。そういう映画ボラプで多大にフィーチャーされていた面はもちろんあります。今こんなに新世代のオタクが付いたのもそこが大きいでしょう。言葉にせずとも何かしらオタクの心の琴線に触れるものがあるのは賛同得られるポイントだと思います。ボラプ沼で過去ジャンルのフォロワーに出くわしたって人も多そうだ。ワイのことや!!

加えてクイーンは今の時代にキャリアを俯瞰して見渡しても、イマイチ同世代同時期のミュージシャン連中との結びつきがほかのミュージシャンに比べて薄かったり、スタジオアルバムもかなり独自のサウンドが強かったり、作品が他の畑の作品とリンクすることがあまりないという理由もあるのかなと思います。

あとミクスチャーの走りみたいなルーツの見えづらい音楽をやっていたこともあって、クイーン聴いてて他のバンドもディグりたい!となった時、なかなか紐付けになる要素が見つけづらい、色んな意味でガラパゴスなバンドです。

加えてSNSどころかインターネットの浸透していない時代のバンド。当時の情報媒体は音楽誌のみ。そりゃあリアルタイム追いしていたらどうしても原理主義的というか、一辺倒な感性が仕上がってそのまま同じ方向を向いて拝んでしまうのはわかります。

 

 

原理主義者発生装置・再び

さらに私がファン始めたての2010年ごろ。まだSNSはそれほど浸透しておらず、個人サイト・個人ブログの文化がまだ現役でインターネットの第一線を張っていた頃です。

情報収集の手段は必然的にその手のサイト類にお世話になるわけで、これがまた2000年代に於いても前時代的な思想統制に拍車をかけてしまう。

SNS全盛の今でこそある程度「よそはよそ、うちはうち」思考がネットユーザーの間に浸透したものの、まだ当時覇権を握っていたのはmixiとかその界隈。10年の月日はネットを大きく変えたんですよ。

その中で数件有名ファンサイトたるものがネット上に存在し、SNS媒体がないゆえ声を持たない/声がまだ小さいいちファン達は、その手のサイト主の名文に感化される。(やっぱり情報の質だけでなく文章も求心力のあるサイトばかりで未だ各サイト主さんは尊敬しておりますしその節は大変お世話になりました。)

人様の書き物についてもこれはその筆者様の感性ですよで留めておけば良いものの、そういうわけにはいかなかった。ある種思想統制されてしまうのです。私も実際そうでした。

 

そうなればオチは明白、日本語を母語とするクイーンファンは音楽誌の覇権時代と変わらず、なんとなく思想が似通ってくるのです。

それもそのソースがガッツリ本気のファンの方の文であれば…あとはまあ、さっき述べたみたいなそういう状況が生まれるわけです。

 

これがクイーン原理主義者を生むカラクリだと思っているんですけど、この状況良くないよねあんまり。

 

 

ボラプとご本尊とファンと

しかし今は2019年。我々はSNSアカウントというひとりひとりの声を持ちました。

クイーンについてボヘミアンラプソディについてフレディマーキュリーについて、どう感じようが自由です。 

どうですか?それでも違和感残りませんか?みんな同じこと言ってない?

別にいいんやけどさ、私はそう思います。

 

 では2019年のクイーンを取り巻く状況の話をしましょう。

映画ボヘミアンラプソディの大ヒット、いや特大ヒットを受け、今やテレビやラジオでクイーンを聴かない日はありません。

もちろん私も4回行って全部号泣して帰ってきて今はファンアート描いてます、それ前提で聞いてください。

映画ボラプは、元来のクイーンが内包していたフィクション顔負けのストーリー性とキャラクターコンテンツ性を極限まで昇華させて肯定もした、良くも悪くも音楽の映画じゃなくて「人間の映画」だったわけです。

だからこそ映画内でフレディの蘇生を通り越して「バンドがスクリーンの中にリアルタイム性を持つものとして新たに生まれたこと」は、我々のようなリアルタイムで追えなかったリスナーにとっては本当にありがたい話なわけです。

 

逆に、この神話的とも言えるバンドストーリーの特殊さも、存命メンバーのいわゆる神対応も、映画というデフォルメされたものを通してこれまでのクイーン史に付随する原理主義的な面を加速させてしまった。

音楽バンドであるクイーンを評価する際、まず念頭に来なければいけない「音楽の評価」という時代に準じて流動性があって当然のものが完全に「ファンが本家と一心同体になりすぎた」、可変性のない原理主義者的評価しか下されない風潮が生まれているように思えます。

それはこれからクイーンが、各メンバーが音楽家としてこれから名前も作品も残すにあたってちょっとまずいのでは、と思います。

 

でも、これについてはバンド側のプロモーションプロセスが悪いなと思っていて、ファンがバンド側に強烈なシンパシーを感じてそういう主観的思想に陥るのは仕方のないものであって、実際そうさせるパワーを他所より倍に内包しているバンドですもの。

そのパワーや可変性のない原理主義者的評価のしわ寄せとしては、(この論を押し付けるつもりは全くないのですが)現行のライブでもアダムが歌ってる後ろでフレディが歌う映像が流れ、シンガーとしてのアダムランバートそっちのけでフレディマーキュリーの法事のような演出を取ることに、クイーンサイドもファンサイドも何ら違和感を抱かないことに尽きると思います。

さらに一部のファンの間では「アダムランバートは認められない、もっと声似てる奴連れてこい」といった声も上がる始末。いやそれも正しいんです。正解なんてないんですから。序盤で触れた「ショウマス命日にしか聴かないネキ」と全く同じ話です。

それと同じように、どうしても私には

一度幕引きを終えたバンドが当時の再生ボタンを押す演出をしてるみたい、2019年に生きてて、確かにそこにいて、ライブしてて、才能あるシンガーも新たにプロジェクトに参加している。クイーンは体制は変わったかもしれないけど一度も幕引きなんてしてないでしょ?

と感じてしまい違和感を抱いています。

この感想も、正しくもあり間違ったものでもあります。これ読んでる人も何抜かしとんねんこのアホはと思われる方が大多数なのはわかっています。

でも本来バンドなどに関わらず、第三者の評価というのはこういう可変性を有するものです。ですが現行のクイーン流評価基準でいうと「完全に間違った感想」になるわけです。

 

私がここで言うこともあなたが言うこともいわゆる界隈有名人の方が言うことも、全ては所詮「感想」です。そこに正解も不正解もないのですが、クイーンという界隈においては、長年培かわれてきたファンの統合された感性に基づくかりそめの正解があたかも当たり前のように存在し、それがある種のオタクを苦しめる要因なのかもしれません。

 

 

2019年の今にクイーンを聴くということ

じゃあひとりのファンとして「2019年にクイーンを聴く」という行為、これの鍵はこのファン内に、なんなら本尊から発信されて未だ蔓延る原理主義的思想からの脱却、なわけです。

もちろんこの思想そのものがダメと言ってるわけじゃありません、でもせっかく今は2019年なわけです。

 ファン活動の主軸をリアルタイムファンの追体験に置けばそりゃ楽しいと思います、メチャクチャ楽しいと思います。てか楽しい。それも1つの要素として内包され続けていてほしい。

でも一辺倒に狂信的に崇められ、キャラクターコンテンツとして消費され続けて、ゴリゴリの主観的評価を元に伝説とやらにならないでほしい、しかも本尊サイドもそれを良しとしないでほしい。この10年代にそんな価値観は絶対に古い。

 

全曲名曲だと思えなくてもいいじゃないか、いろんな音楽を聴き2019年に俯瞰したからこそ抱ける感想じゃないか。公式と解釈違いとやらが起こってもいいじゃないか。別にHot Spaceは駄作じゃないでしょ。右向け右じゃ息苦しいでしょ?

 

 

 

クイーンのオタクよ、音楽を聴こう

ではクイーンのオタクin2019たるスタンスを保ち、ニュートラルに自らの感性でクイーンに触れるにはどうしたらいいのか。

 

まずクイーンのオタクをたくさん見てきて、全てフィジカルで盤揃えて再販媒体も買い揃えて、と言ったまあオタクならではの行動をよく目にします。マジですごいなと思います。

リアルタイムファン行動の追体験、(オタク特有の)経済貢献という観点から正しいファン思考であると思います。

でも、それだけが正解じゃない。例えばストリーミングで聴いてもいいじゃんって思うんです。新規ファンの若い人たちは特に。

音楽を聴くにあたっていちばんの醍醐味は、リスナーひとりひとりが誰とも被らないオリジナルの音楽樹形図のような「好き!」の形態が作れるポイントにあると思っていて、そういう音楽の楽しみ方をしようと思ったらストリーミング配信ほどうってつけのものはありません。

クイーンの音楽を好きになることから間口を広げて、洋楽邦楽古今東西問わずシームレスに世界に広がることを全アーティストが(ストリーミング配信を行なっている以上建前の上では)良しとしているわけです。

あらゆるジャンルやアーティストに於いて、原理主義者を産み続けるよりはそういう感性を持ったリスナーが増える方が今の時代好ましいことだと思うのです。

 

【4/1追記】まあこれはあくまで「ストリーミング配信」という、音楽史の転換点とも言えるコンテンツが登場した今だからこそしてみた提案の一つです。賛同いただけなくとも全然大丈夫です。もっと手段はあります。言い方悪くてすいません。

 

 せっかく過去の音楽もリアルタイムの音楽もどこの国の音楽も俯瞰で観れる2019年です。もしあなたがこの映画から洋楽をはじめとした音楽そのものへの入り口だったとして、それがクイーンというスーパーウルトラメガ最高バンドだったとしたら、本当に幸せなことだと思います。

なにもリアタイ勢の背中追わなくたって、ミュージックライフ買い揃えなくたって、インスタ全部追っかけなくたって、心配しなくとも今クイーンは生きてる。フレディだって音楽の中に生きてるんです。

そしてそのクイーンの血流は至る音楽から受け継いだもので、また今この瞬間もあらゆる音楽に受け継がれていっているのです。

 

とにかく、何が言いたいかというと。

だから絶対に周りのオタ活偏差値や感想のズレなんて気にせずただ純粋にあなたの感性で楽しんでほしい!!

 

こんな楽しみ方、2019年のクイーンファンにしかできないんですよ。楽しむしかないと思いませんか?

 

最後に

どうかガチガチの風潮や思想に飲まれず、そんな前時代の息苦しさに辟易せず、いろんな考え方でいろんな角度からクイーンを聴いて見て感じて楽しめる仲間が増えればと思います。

だって今は2019年ですからね。一緒に楽しみましょうね!

 

 

べしちゃんでした、またね〜!

あといつもべす@beththeswineのファンアート見てくれてる人本当にありがとう!