Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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雑記ー『ハウス・ジャック・ビルト』を見て

『ハウス・ジャック・ビルト』を見た。

 

 

良くない、と思った。

あまりにも断絶的なカットアップに話運び。

主人公のジャックがマンションの一室で叫ぶと同時にズームアウトしてマンション全体を映す絵に変わるというカメラワークのセンスのなさには頭を抱えた。はっきり言って、ダサい。

エピローグも監督の悪癖が余すところなく浮き彫りとなり、メジャーとインディペンデントの狭間から脱することもできないまま公開してしまった居心地の悪さにもぞもぞとした2時間半である。

 

しかし、見終えてから1週間ほど時間を空けるとまた印象が変わる。

あまりにもバカバカしかったドラクロワの再現図やグレン・グールドによるバッハのモンタージュなどの断片的な内容が各々映画の様々な場面に結びつき、重層的な構造体として、本来作品があるべき姿が発現するかのような奇妙な体験であった。

劇中の主人公と脳内の声の「ダイアローグ」(あるいはモノローグかもしれないが)で、物体として完成した何かが部分的に損壊し、美的にはそこで初めて完成体となりうるということについて述べていたが、改めて振り返るとまるで入れ子構造として本作のあり方を指していたかのようだ。

あるいはあまりにも整合性のない作品を記憶が改竄を重ね、それなりに見てくれの良い全体像に塗り替えただけかもしれないが。

 

「また見たい」と思っている今この時点で、自分にとっては良作の部類なのだろう。

だが、それぞれの暗喩的表現にそれぞれ意味合いを見出すという「解説」なる作業に手を出そうとは思わなかった。

そもそも知識的な不足とそれを補うための時間があまりない、という自分側の問題もあるが、これまでの監督の作品の鑑賞体験とパンフレットの監督の発言を踏まえるに、この監督の作品に全体を通しての何らかの一貫した物語を見出すことは難しいという印象を受けたためである。

無論、本人の意図しないところに作品の評価箇所を見出すのは批評や解釈においての基本的姿勢であり、それを否定するわけではない。しかし、それらの言説が成立するのはあくまで「因果」という言語の根底にある関係性を前提にしているからであって、ラースフォントリアーにそれを適応するのはかなり難しいのではないか(別に自分は批評の仕方などを学んでいるわけではないので、過去の文化人による因果を無視した作品を正当に評価するあり方があるならこの文章はただの妄想だ)。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で散々指摘されている「なぜ殺人に加担したのか」「なぜ冤罪を主張しないのか」に始まるように、彼の作品の登場人物はしばしば奇妙な行動を取る。本作でも、首を絞めて絶命寸前まで至らせたものの、その後相手が呼吸困難で聞くも哀れな呻きを挙げている様に我に返ったかのように謝り、その後「まだ死んでなかったのか」と改めて絞殺する流れは全くもって意味不明である。

この意味不明さを論理的に構造分析することはできるのか。それは自分には分からない。しかし、感性でその理不尽を咀嚼して自分の糧にすることが、少なくとも今の自分には、正しい作品への接し方だと思った。

 

少し観点を変えよう。

あいも変わらずのポリコレへの逆張りと見せかけたリベラル一本釣り要素による見当違いなお怒りの表明もあるが、妙にメジャー配給的な宣伝がされたためか、ミーハー層を取り込んで頓珍漢なレビューが目に転がり込んでくる。

「これだけ人を殺して警察に捕まらないのは不自然」

そもそもにもっと不自然なところはいくらでもある。脳内で声が聞こえている時点でこの話全てが本当に「事実」であった保証はない。よくこの作品を見てそんな感想になったな、とただ驚く。

まあ、他はカメラの手ブレが変だとか話が盛り上がりがないとか、ラースフォントリアーという作家性を知らなければ当然な感想がほとんどで、ミスリードで作品の評価を貶めるようなものはなかったが、改めて誰でも自分の意見が言える上に、文脈というものが裁断され、粉々になった今日の社会のあり方を考えてしまう。

「知能あふれるものだけに発言を認めるべきである」というかつてのエリート主義は悪しきものとして切り捨てられた一方で、いわゆる「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」インターネットとSNSによって、誰もが嘘に踊らされ、誤った評価を他者に下して理不尽に何処かの誰かの生活を破壊する社会が成立した今。映画というインスタントに消費できるコンテンツで、勝手気儘な発言が出来るということは過ちとは言えなくても、一定の是正を果たすべきであろう。

そこに「民衆のリテラシー向上」という選択肢を入れるのは現実的なのであろうか。個々は誠実に生きているつもりでも集団になると理性的判断能力を失い、愚鈍に間違え続ける古代ギリシャのデマゴーグに始まり、ポピュリズムに吹き荒れる今を見ると、「大衆」という実体がないが確かに存在するそれは、お世辞にも利口とは言えない。

やはり何かしらの言語統制は許されるべきなのだろうか。

 

本作はヒトラーに理解を示す発言でカンヌ追放処分を喰らってから初のカンヌ出品作であるが、劇中ではそれを皮肉ってか、ナチスの建築物の美しさとその歴史背景からのおぞましさで主人公と脳内の声が舌戦を行う。それは言論における倒錯した独裁への憧れとそれを許さない心、文脈から抜き出した単体の作品への評価とそれを許さない「批評」精神の関係性にどこか近しいものがある。

 

こうしてグルグルと考えさせることが監督の狙いなら全くもって成功だ。