Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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muse, truth, matrix.

Welcome to the real world.

What is real? How do you define 'real'?

 

映画「マトリックス」のセリフである。

今まで当たり前のように生きてきた世界が、機械によって見せられていた仮想の世界でしかなかったことを目の当たりにしたネオにモーフィアスが放った言葉だ。

この世界は仮想空間であり、自分の意識はこの世界の外部の存在の意のままにコントロールされている... インターネットによるもう一つの現実が姿を現した20世紀の終わりに発表された本作は、後のSF作品に大きなインパクトを与えた。異なる人格や性格のペルソナを作り上げ、掲示板をまるで「第二の現実」のように謳歌する人たちがいる世界は果たして本当の「現実」なのか?

シミュレーション仮説。マトリックスで用いられた有名な概念は、20年近くの歳月を経て再びMuseの作品の題名としてポップカルチャーに復活した。それも80年代のSFカルチャーの引用と共に。何故か?

 

アルバムのオープニングナンバーである「Algorithm」。「マトリックス」のオマージュも散見されるPVでは、主人公が今生きている世界がシミュレートされた虚構であるという事実に辿り着く。

 

「Thought Contagion」のPVにその答えはある。その映像では、本当に起きた真実ではなく信じたいものを真実と信じる人々 ー ポストトゥルースの徒 ー の思想がウイルスのように伝播していくという歌詞を、Michael Jacksonの「Thriller」のオマージュの形を取って表現しているのだ。

SNSの発達や各分野の技術や情報の複雑化により、誰でもデマをばら撒くことができる上に、それを否定することが難しいという極めて厄介な状況に陥ってしまった現代。それはまるでゾンビが不治で不死のウイルスをばらまいて行くかのようである。デマに振り回される人々は自らは「真実」を知っていると確信し、己が過ちに気づかない。

デマの生成者とその罠に引っかかる民衆。本来の意味合いとは異なるものの、構造はシミュレーション仮説そのままである。無知蒙昧な大衆がなまじ大量の情報にアクセスできるようになった結果、デマゴーグに完全に弄ばれるようになった現代社会を、SFやかつてのポップカルチャーの引用で痛烈に批判する。今までのMuseからは表現者として一回りも二回りも成長した様が見て取れる素晴らしい映像作品だ。

 

 

また、Michael Jacksonという80年代のポップアイコンをモチーフとして使っていることも見逃せない。MTVの登場でPVの重要性が増した時代の作品を、映像が重視された最新作で引用するという表層的な共通点だけではない。豪華絢爛で刺激的でありながらも、画一的で大量消費用の商品でしかなくなったポップカルチャーが氾濫し、それをマスメディアが喧伝し、人々の視覚や聴覚を通じて否が応でも摂取させていた時代。流行に翻弄され、右往左往する当時の人々の様はゾンビのようでもあり、それは丁度ポストトゥルースを信じる2018年の人々のようでもある(決してMichael Jacksonを揶揄しているわけではない。むしろ彼も彼でそのマスメディアの誹謗中傷の対象にされていたわけで、ある種犠牲者でもある)。

ミーハーであるMatthewが悪意を持って一連のPVを80年代風に仕立て上げたとは到底思えないが、その一方で、初期にはマドンナの持つレーベルから「ファルセットを抑えろという命令を無視した」として契約を切られており、80年代の音楽に100%ぞっこんということもないだろう。もし80年代と完全に懇ろだったとしても、その享楽と退廃に満ちた世界観を身をもって表現してくれるのだ。ファンとしては迷走期のBowieのように見ていて危なっかしくて仕方ないが。

そのDavid Bowieも「Fashion」で80年代の入り口にして流行に振り回される人々を揶揄している。まさか自分がその後10年近く流行に振り回されることになるとは思っていなかっただろうが。

 

最後に、他曲のPVとの関係性やアルバムの物語全体の構造にも少しだけ触れておこう。

冒頭で主人公が操作する「Dig Down」のゲーム。そこでは孤軍奮闘する義足の女性キャラが80年代風のゲームの主役として戦っている。「Dig Down」はシミュレーションの世界から抜け出すために戦うことをアジる曲であり、「Thought Contagion」の主人公も最後にはゲームの中の存在でしかなかったことが明らかになることを踏まえると、世界は無限の入れ子構造になっているかもしれないという恐ろしい想像を促すトリガーとなっている。

 

また、Museのメンバーの登場方法だが、

Matthew→「Thought Contagion」より一つ上層にある世界での住民

Dominic→主人公のいる世界(=ゲーム内)でジャンキーたちを取り締まる警官

Chris→ポスターのみの出演で、「Dig Down」のMax Headroom(80年代に冠番組を持ったCGの司会者)スタイル

となっている。

 

「Something Human」ではリズム隊が狼男と化したMatthewをカーチェイスし、「The Dark Side」ではMatthewがシミュレーションを破壊しようと奔走する様を見るに、Matthewはこの世界が偽物であると気がついたマトリックスのネオであり、リズム隊は世界の構造に気がついた人間を排除するエージェントスミスという風に見るのが良いだろう(Dominicはゲーム世界とその上層の世界との両方で実体を持っている)。そう考えると、「Something Human」で異形の姿と化すMatthewは、PV内での善悪構造をミスリーディングさせる演出、ひいては何が「真実」かが不明瞭なポストトゥルースのテーマに沿った演出と言うことだろうか(尤も、PVという形式上、物語よりも映像的インパクトを優先しているだけかもしれないが)。

 

 元々アルバム全体の話をするつもりだったのが1曲の解説だけになってしまったがため、話がやや散漫としてしまったが、以上を通して1つ言えることがある。

アルバム「Simulation Theory」はMuse史上1番のエンターテイメントであり、1番のコンセプトアルバムである。

 「Thought Contagion」に的を絞ったのは、アルバム全体の構成が1番色濃く出た楽曲とPVであるからだけで、 他の曲に目をやっても、ここ数年のどうにも要領を得ない作品群とは別物であることが良く分かる素晴らしい出来である。その辺りの話はまた次回の機会にして、今回はここらで筆を置くこととしたい。

 

joji、新譜「BALLADS 1」とboiler roomでのライブに思う事

最近、jojiの新譜「BALLADS 1」のヘビロテが止まらない。

 Jojiは、NY在住のオーストラリア系日本人で、88risingっていう音楽レーベル・プラットフォームに所属してるSSW。この88risingというのはNYを活動拠点としていて、jojiの他、Keith ApeHigher BrothersやRich Brian、KOHHらが所属しており、アジアのミュージシャンを取り上げバックアップするチーム。そんな88は時としてHYOGOHとかyaejiの活動もピックアップしていて、かなりジャンル横断的なスタンスぽいです。そんなチームと共に活動するjojiの作品は、前作のEP「In Tongues」からずっと聴いていたんだけども、今年の5月発表の「YEAH RIGHT」を皮切りに先行リリースが続き、楽しみにしていたらとうとう10月末にアルバム決定のお知らせが。。

ほんで満を持して蓋を開けたら、ガッツリ惹き込まれる名盤でした。

その高評価の具合は、僕たちファンの中だけでなくビルボードの3位という結果として表れ、いよいよ気鋭のR&Bシンガーの本格バラッドとして世界から注目される存在になった訳ですね。

 

 ぶっちゃけ、jojiについて何か書きたくて、でも何から書けばいいの?と思ったんだけど、(まぁ新譜とかライブとか活動経歴について思った事を書くつもりなんだけど、っていうか全く簡潔に纏めようという気概がなくて申し訳ないんだけど。)とりあえず、さっき述べた「世界から注目される存在になった」ってとこについて触れながら、jojiのキャリアから新譜まで紹介したいと思います。 

 

 

 

 ・Filthy Frank期

 ビルボード3位、、世界的シンガーっすね。でも、jojiが「世界から注目された」のは今回が初めてではないんですよね。元々「Filthy Frank」名義でyoutuberとして活動していた際に、色々と賑わせていたらしいのです。ジャンルでいえば、おふざけyoutuber。

 例えば、ザリガニで賭けレースしたり、そこに鼠を投下したり、(ちょっと視聴注意)

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路肩から拾ってきた鼠を使った料理で友人にドッキリを仕掛けたり(jojiは路肩から鼠を見つけるのが上手い、あと、ちょっと視聴注意)、

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海外の日本オタク「weebo」をおちょくったり、

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ETの続編を作ったり、(ちょっと視聴注意)

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色々やっているんですよね。

話は激逸れですが、生活系YoutuberであるHow To BasicやMaxmoefoeとは同郷で、度々コラボしてます。

HAIR CAKE (ft. HowToBasic, MaxMoeFoe, and iDubbbz) - YouTube

(マジで汚くて最悪なので視聴注意)

 

 そして、そのあらゆる活動の中で最も大きなミームに発展したのが、2013年の「Harlem Shake」。

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これはBaauerの「Harlem Shake」という曲に合わせて、読んで字のごとくマジの馬鹿騒ぎをするというミーム。元動画は、ピンクの全身タイツをまとったフィルシーフランクと共に、同じく仮装した友人達が馬鹿騒ぎするっていうもので、

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(やっぱオリジナルが一番いいわ・・・・)

これが火種になって皆んな真似して動画撮るようになっちゃったのです。挙句、ハーレムシェイクする人数の競い合いが起こる羽目に。

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つまり、jojiとしてビルボードに入る前に、もしかしたらビルボード入るのと同じくらいどデカイ花火を数年前に打ち上げてたんですよね。

 そんなフィルシーフランクなんだけど、じゃあ何でそんなおふざけyoutuberが音楽的な分野に活動をシフトしたんだよっていう、そこのきっかけがかなり気になってくる。これに関しては、最近上がったビルボードのインタビュー記事にフィルシーフランクがjojiになる経緯が綴られてます。

www.billboard.com

 インタビューで本人がなんて言ってたかというと、まずユーモラスなおふざけyoutuberとして大暴れするのに疲れ、(まるで味覚が変化するように)単純に飽きてしまったという。冷静に活動を振り返るタイミングがあったんだろうか、自分の活動に満たされなくなり、自暴自棄となってやけ酒が止まらなくなり心身共に不健康に。そこから、ユーモアに・露悪的に振る舞わなければならないフィルシーフランクとしてのプレッシャーや仮面を捨てて、自分自身を表現したい、というマインドに変わっていったという。

自己嫌悪や苦悩が歌われてる曲が印象的だけど、そういう経緯があっての歌詞なのね、と納得する。

 

・PINK GUY期

 という事で、フィルシーフランクからjojiに変貌を遂げたきっかけはインタビュー記事でハッキリと分かるんだけども、ここの間にもう一つキャリアがありまして。経歴となれば、そこも紹介しとこ!と思って記します。

「Harlem Shake」にて、フィルシーフランクはピンクの全身タイツを着用して、と先述してますけども、この「ピンクの全身タイツ」 重要なんです。フランクはこの全身タイツを着て、PINK GUYと名乗って歌手活動をしてました。jojiの前身となる活動は「フィルシーフランク」ではなく、実質このPINK GUYなんですね。ちなみに、全身黒タイツを着用する事で、「オチンチン」というキャラクターを演じたりもします。

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 とは言えPINKGUY以前のフィルシーフランク時代から、本人がウクレレを弾いていたり、自作と思われる打ち込み主体・生音混じり・声ネタ多用のMADチックな音源をBGMとして取り入れてたり音楽活動みたいなのはしてたんですけど、しっかりラップしている曲を発表しだしたのはPINK GUYから。

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結構ラップスキル高!!と思わせるクオリティの曲ばかり。ここではまだ、フィルシーフランク像に縛られたヒールキャラっぽさを感じるテーマの曲が多いんだけど、力の抜けた歌唱やハモり方、トラックにおける弦楽器の扱い方、音の質感みたいなのに注目すると、かなり今のjojiと繋がるものがあります。

例えばBitter Fuckって曲。

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 また、PINKGUY名義でlil pumpと絡んでたりもする。ここら辺の交遊関係が成立するのも、インターネット発ラップシーンにおけるフランクのプロップスの高さがずっと保たれているからなんかね

 (なんで高いかと言ったら、youtuberとしてインターネット界でシンプルに強くて各方面から既に認められていたから、そもそもネットラップシーンに音源以外の活動が面白いか否かという評価基準がデカかったから、あんなふざけておきながら発表するラップ曲のクオリティは意外と正統派でウケたからってとこが要因になりますかね。。)

 

・Jojiとして。Live at Boiler Room

 そんなこんなでPINK GUY名義でHigher Brothersともコラボしたりしながら、

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本格的にjojiとしてのキャリアを進めたんですね。そんなこんなで、Soundcloudを曲発表したり、公式リリースしてないながらも未発表曲がリークされSNSでバズったりが続き、そろそろEPとか出るよなあ!ってムードが高まっていくのですが、その当時の空気感が味わえる動画がありまして。

 

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 当時の空気感ってどんなんだったかと言うと、jojiの貴重なライブに対する期待感と、困惑でいっぱいだったんですよね。いや、本当にみんな困惑してたんですよね(このライブ動画のコメント欄にも困惑してる人がチラホラ)。結局この人は、フィルシーフランクなの?PINKGUYなの?それとも真面目なjojiなの???っていう困惑。どのキャラで見ればいいのっていう。多分、正解に近い答えをいうなら、どのキャラも混在してるし、過去の面影を見ながらjojiとして楽しんでくれという話なんだろうけど。

てか、何かのキャラに対象を当てはめなきゃ楽しめないなんてしょうもな!って言われたらアレだけど。

 この動画の私的ポイントをまとめると、日本語で「低いやろ」発言、「風邪引いてるから煙草吸うのやめてくれ」発言、頻繁に挟んでくるスラング、脈絡のないトラップ音楽を流して客にダンスを強要、どの曲もちゃんとやらない(これはヒップホップのライブではよくあるんだろうけど) 等等。

 上記の私的ポイント、何が言いたい?って話なんですが、つまり、これらのポイントから照れ隠しを感じる!ってのを言いたいのです。これまでユーモア全面だったキャラがいきなり真面目ぶって、シリアスでレディオヘッドみたいな自作曲を歌いだす。音源自体はクソ良い曲とはいえ、黒歴史を振り返ったらまともにシリアスな曲なんか歌えるわけないすよ。その気持ち誰でも分からんでもなくないすか。

 ただこのライブに関して興味深いと思う点は、照れ隠し諸々の旨みポイントはさておいて、、

まず曲回し(セットリストの組み方)・MC回しがスムーズで手慣れてる点がYoutuber的だなと思ったところ。ライブ中のスラングの入れ方、客の茶化し方、曲間・MC中での間の入れ方、振る舞いっていうのは、黙々と演奏するシンガーとか口達者でMC長くなっちゃうシンガーの様な定番の型には当てはまらない独自のパフォーマンスというか。

 要するに、youtuberとして長年皆んなを楽しませるコンテンツを作ってきた人の経験則、youtuber的な  エディット能力みたいなのをライブパフォーマンスから感じるんですよね。えらい抽象的でごめんなんだけど。その点でこのライブはかなり好きだし、単純な規模のデカさに訴えかけない様な飄々としたパフォーマンスは、スタジアムバンドみたいな対極に位置するパフォーマンス違ったエンタメとしてめちゃ面白いんじゃないかと思うわけです。

 物質的なインパクトだけでなく、インターネットのミームや分脈を持ち寄り、振りかざして楽しもうぜ、みたいなのを前面から肯定していく感じ。

 とは言え、「In Tongue」が発売され、88risingの主要メンバーとして作品を発表しまくる中で、そんなおぼろげとしたキャラクター受容の時期も終わり、完全にR&Bシンガーとして受け入れられていくんですね。なので、今ではスタジアムで歌う一歩手前です。まぁどこで歌おうがどうでもいいんだけど。

 

・「BALLADS 1」とまとめ

 というわけで「BALLADS 1」が発表されて、また世界を賑わせてしまったフランクミラー。本名ミラーっていうらしいです。

 本作については沢山は言わないけど、すごい印象に残ってるのはディストーションギターの存在。

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歪んだギターが心地よすぎる。この歪みギターとローファイさとテンポ感、気だるげなボーカルがあいまって、僕的にはグランジと繋がった、Pixiesとか。。けれども、リズムはロックでも何でもないし、メロはめちゃポップスだし、フロウはトラップ以降だし、オルタナとかでもないしっていう。。

あとアルバムのリード曲と言ってもいい美メロバラード、「SLOW DANCING IN THE DARK」。

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ななんと、ChairliftのPatrick Wimberlyがプロデュースに入ってるぽい。

 

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この曲「TEST DRIVE」はRL Grimeがプロデュースに参加とね。

 

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アルバムの中で1,2番好きなこの曲「CAN'T GET OVER YOU」。

タイトル通り、Clams Casinoとの共作に加え、Thundercatもプロデュース入ってるらしい。どこ要素で・・?

恋愛にまつわる歌ですが、ちょっと重い。あんま書き出したくないですが、自傷グッズとして一般的だとされているボックスカッターを女性だと例える詩のくだりからは、ほんの少しjojiの苦悩が読めてしまった気がする。

 

 ともかく、あらゆる音楽の地つづき(もしくは音楽家間のコネクション)を自然に感じさせるSSWは最近特に多いかもしれんけど、それに加えてjojiには、youtuberとして既にビッグネームだった特殊なキャリア、喋りの上手さやキャラの濃さ(被写体として強すぎる)、日本(大阪、神戸)〜オーストラリア〜NYと、複数のホームグラウンドが備わっていて、、、特に今後も活動が気になってしまう。

 

あとアルバム一曲目のこの曲、ゴリゴリに音が割れててかっこよかった。

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 ということで、、joji、おふざけyoutuber時代に培った技が、内省的なR&Bの表現に活きてんだと思って聴くとかなり面白いものが見えてくるんじゃないかという話でした。そして、関係者各位をまとめたプレイリストをシェア。jojiの活動や作品を多面的に捉えられるであろう選曲となっています。

 

 

 

スーパーグラスは砕けない

スーパーグラスについて、語るべき時が来た。

どう言うバンドなのかを説明するところから始めるべきかもしれない。

雑にいえば、ブリットポップムーブメントから躍り出てきた、かなり良いが忘れられがちな、既に解散しているバンドだ。記事のタイトルに砕けないという言葉が入っているせいで、スーパーグラスのグラスが、ガラスのグラスだと想像されている方もいらっしゃるだろうが、このグラスは葉っぱのグラスだ、ハッパ、ウィィィィィ;D、まじで草。

ブリットポップであるというシールをまず剥がさないことには、いつまで経ってもスーパーグラスは、時々思い出して聴くだけの結構良いバンドと言う枠を出ない。彼らは僕にとって、ある意味、本当の良さを見つけるまでに時間がかかったバンドだった。ひょっとすれば、過小評価の原因は聴者の怠慢なのかもしれない。

エネルギッシュなポップであるより先に、スーパーグラスはドラマチックなロックだと言うことをまず強調したい。

 

 

90年代のスーパーグラス

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二年前、2016年の正月において、僕にとって帰省中の主たる経済活動は中古CD、小説の回収だった。地元の、愛媛なんだけど、そこのブックオフや中古CD屋さんを巡礼しては浪費のチリをコツコツと積もらせていく毎日である。TSUTAYAで借りてインポートしていただけの音源も大量に回収したし、ブラーのシングルもいくつか買った。

そんな単調な発掘作業の中で、あの時僕が見かけてワクワクしたバンドが、Explosions In The Sky とSupergrassの二つだった。なんでそんなかけ離れたバンドを探し回ってたんだっけ… 思い出せないけど、あの頃、なぜか爆発的にハマっていた。

隣町にある、エロ本とエロDVDを経済的主柱に据えた中古屋にて、Explosions In The Sky の最初のアルバム3枚が置いてあったのは、今振り返っても不思議だ。どこにでも置いてあるバンドではない、特に田舎ではそう簡単に手に入るはずがないのに。

対照的にスーパーグラスは結構いろんな店で見かけた覚えがある。最初の3枚だけだったけれど、それぞれ3枚ずつくらい見かけたように思う。当然それぞれ一枚ずつ買った。

  

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あの正月は、考え方を変えれば、僕が初めて日本に「来た」日々だったから、殊に思い出深い。スーパーグラスにどハマりしていた時期があの正月に限定されていたのも、その日々に「古き良き」という枕ことばがよく似合う気がする一因なのかもしれない。ほんの2年前なのに。

あの後、大阪でウルフアリスを見たり、マレーシアでテームインパラを見たり、ミステリージェッツやらThe 1975 の新譜に圧倒されたり、そんなこんなでスーパーグラスはいつの間にか二ヶ月に一回なんとなく気が向けば聴くバンドになっていた。

弾けるようなポップネスに重きをおいて聴くと、いかに良い音楽でもすぐに飽きてしまう。無慈悲にも、彼らの初期三作は、僕にとってもまた、愛媛の廃れたブックオフの各店舗に複数枚ずつ並んでいておかしく無いアルバムとなってしまった。

本当に素晴らしいんだけど、良い、以上のところまで突っ込めなかったのだ。(だが、結局、今はまたブームが来てめっちゃに聴いてるってわけ。理由は後述する)

まあ、そんなことを考えながら、ヒット曲、Alrightのビデオなんかを見ると、すごく、あぁブリットポップって僕にとってこんなイメージだ、って再認識してしまう。寂しさが先にくる。話題にならないバンドなのも仕方がないのかなぁ、とも思った。アルバムを通して聴くと飽きがちでもある。

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例えば、99年にリリースされた、セルフタイトルの3rdアルバムのオープニングトラックMoving を聴くと、こうやってバンドもブリットポップも終焉を迎えたんだなぁと感じてしまう傾向があった。ドラマチック、儚げ、霞がかかる過去のような、良い曲だ。このバンドが、21世紀にも存続していたら、もっともっとドラマチックな、何か面白いことをしてたんじゃないかって、思うような曲でしょう?

「ただ動き続けろ、何がまともか判らなくなるまで」なんて歌詞はひどく沁みる。

 

00年代のスーパーグラス

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例の愛媛県東予地方のブックオフの話だが、どの店にもスーパーグラスの最初の三枚のアルバムはあったと言った。だがそれ以外は置かれていなかったのである。それが理由で、僕はこの間の梅雨まで、2年以上、スーパーグラスがアルバムを3枚だけ出して解散してしまったバンドだという風に勘違いをしていた。

6月ごろに、たまたまスポティファイのデイリーミックスで、良い曲にぶち当たり、アーティストとアルバムを確認すると、スーパーグラスの5枚目『Road To Rouen』の一曲目だった。信じられなかった。スーパーグラスってあのスーパーグラス!?ってなった。なんと、スーパーグラス、21世紀にも3枚アルバムを出していたのだ。(勝手に90年代に解散していたと勘違いして、偶然その後があったことを知って感動する、こんな馬鹿げた話があって良いのか?と思うところもあるが、まあこうして遂に出会えたのだから良しとする。)

この『Road To Rouen』めちゃくちゃ良いので、ぜひとも聴いてほしい。これまで持っていたスーパーグラスのイメージとは、かけ離れた、「果てしなくドラマチックな」作品でござる。霧が晴れて行くように、徐々に広がっていき、静かに熱く燃えるような、じわじわとアガるアルバム。

フォークであり、サイケであり、クラウトロックでもある。

例えば、Roxy なんて曲があって、これはMovingを聴きながら、僕が脳裏に描いた、こう変化していって欲しかったスーパーグラスそのものだった。

このアルバムが5枚目で、次のアルバムの後に解散、要するにこの時点で聴いていない4枚目と6枚目も当然、急いで聴いた。

 

5thアルバム、『Life On Other Planets』、これも期待通り素敵である。クラフトワーク風のイントロから始まるこのアルバムは、2002年のメルトダウンフェスティバルで披露された。2002年のメルトダウンと言われビクッとなる人は多くいるであろう。毎年、著名なミュージシャン、音楽家をキュレーターに据え、その人が演者を選ぶというユニークなフェスなのだが、2002年のキュレーターは我らの愛する故デヴィッドボウイだった。もちろんスーパーグラスの大好きな人でもある。

ウィキペディアによれば、このスーパーグラス、ミュージシャンからの評価が絶大だと言う。実は、同郷オックスフォードの先輩であるレディオヘッドのツアーにも何度もお呼ばれしている。全然雰囲気の違うバンドだが、トムヨークはかなりスーパーグラスがお気に入りだったようである。

ちなみに5枚目のアルバムでは、僕は特に7曲目のNever Done Nothing Like That Before が好きだったりする。

Never Done Nothing Like That Before, a song by Supergrass on Spotify

 

最後のアルバムは、グランジ、グラムロックからの影響なんかも色濃い、フィナーレに相応しいアルバムだ。デヴィッドボウイとゆかりのある、ベルリンのハンザスタジオにてレコーディングされたそうだ。このアルバムを聴いて初めて、スーパーグラスが今のイギリスのインディーロックに残したものの大きさを感じた。リバティーンズがこのバンドの初期の作品に強く影響を受けたというのも、頷ける。

90年代に現れたスーパーグラスというバンドは、ブリットポップウェーブに乗って登場した。そして、2000年に入り、ブリットポップではなく、スーパーグラスという固有の世界を聴者に分かりやすく示しながら、リリカルな精神世界を展開したのだ。

結果的に、2000年代の三枚のアルバムは、初期の三枚の再認識を促し、より素敵なスーパーグラスの聴き方を僕に教えてくれたと言えよう。より深く潜ってこのバンドを聴くことができるようになった。

かつて、一時的なマイブームでにわかに聴いて、このバンドが好きだ、と聴き尽くしたつもりになっていたというのが非常に恥ずかしい。スーパーグラスは後半の三作品を聴いて初期を聴きなおしてから、それでやっと、いやぁ…良いバンドだよなぁ…と感慨に浸るべきである。

まだ聴いていないスーパーグラスがあるのだろう?それを聴かせてくれよ! と今は強く感じているが、もう続きはない。

2010年に七枚目のアルバムををボツにしてバンドは解散してしまい、今は各々ソロなどをしている。勘違いではなく、こればっかりは本当らしい。

 

で、結果一番聴いてほしいのは今年の作品である。

何故今わざわざスーパーグラスを語ったかというと、スーパーグラスのフロントマンのギャズが今年発表した三作目のソロ作品が非常によろしいからなのである。続編はないと言ったが、スピンオフが本編級に素晴らしい。

聴いてもらいたくて仕方がない。

実は、恥ずかしながら今日彼のソロが出ていたことを知った。

最近、Spotifyで、Daily Mixと全曲シャッフルハマっており、なんなら音楽生活の中心になっている。今回も、Daily Mixでふと引っかかって、ええ曲やんけ。とアーティスト名を見たら彼だった。しかも今年のアルバムだった。

スーパーグラスのギャズのソロだと知らずに聴いて、素晴らしく感じるのだから、本物でしょう?  また、スーパーグラスのギャズのソロだと思って聴くと更に感動が増す。オックスフォードのことを思って聴くともっと増す。

今回ハッキリしたけど、僕の音楽情報アンテナは多分ぶっ壊れているんだと思う。6月にスーパーグラスまだ聴いてないアルバムあったんか!と騒いでたあの時、もう既にギャズのソロは出ていた、ワタクシ馬鹿の如し、。

 

→ ギャズの新譜レビューへ続く(予定)

 

by merah aka 鈴木レイヤ

★を継ぐもの

David Bowieの遺作「★」に参加したDonny McCaslinが「Beyond Now」に引き続いて「★」の録音時のバンド編成で制作した新譜「Blow.」が世に出た。

Bowieのファンならずともインディーロックのリスナーにも聞かれるべき名盤である。

当方はBowieによって彼の名前を知った新参者であり、ジャズの知識もさほどないので、Donny McCaslinのより専門的な話を知りたければ下記リンクの記事を読んでいただけたら良いかと思う。

 

All About ダニー・マッキャスリン / リズムを革新するサックス奏者

 

さて、簡単にこのアルバムを説明すると、「Bowieを起爆剤とし、ロック的ジャズでもジャズ的ロックでもない、極めてマージナルな音楽が提示されたボーカルアルバム」である。前作「Beyond Now」はジャズを通したBowie像が部分的に提示されたアルバムであったのに対して、本作は完全にBowieの影響下に置かれ、己の心の赴くままに制作された非ジャンルアルバムなのである。その点に関しては、Donny本人が非常に印象的なコメントをプレスリリースに寄せている(Donnyの公式サイトのAbout欄に至ってはBowieの死から文章が始まっている)。

 

ーボウイと共演するまではこんなことが可能だとは思いもしなかったー

 

Before working with him,

things like this didn't seem possible to me

 

その"things like this"が本作、「Blow.」なのである。

 

 

いきなりGuns'n'Rosesの「Welcome to the Jungle」を思わせる三連音によって紡がれるリフによって始まるアルバムの開幕で、多くの人は戸惑うはずだ。本来はギターが担うであろうプレイを、オリジナル曲でサックスがその役を引き受けているのだ(「Great Destroyer」においても同様)。その後ボーカルのパートが終わってサックスソロが挿入される2分過ぎからの展開。ロックバンドのギターに置換しても何ら違和感がないフレージングである。先述の通り、自分にはジャズや楽器の専門的な話はあまり出来ないが、元々ギターなどの別の楽器が担当しているパートをカバーで演奏するのでもなくこのようなプレイを聞かせるというのは相当変わっている。

 

話は少し逸れるが、僕がロックバンドなどのジャズカバーコンピレーションを忌み嫌うのは、「ジャズ=おしゃれなBGM」という図式にあるのだが、それ以外に、それぞれの楽器の構造上発生する独自のフレージングやテクニックなどの文脈を無視して、原曲で演奏された音階や音の伸ばしをそのままに演奏するちぐはぐさにある。だがこのアルバムでは、別楽器が紡ぐべきフレーズを自分で一から構成して演奏するという極めて変則的なアプローチを採用している。その点でこのアルバムは非常に非ジャンル的立ち位置にあるのである。

 

 

「Break the Bond」では更にその傾向が明確に現れる。まるでボーカルパートをそのままなぞったかのようなサックスのメロディーライン。だがこれは原曲のないオリジナルの楽曲なのだ。サックスがあまりにもシンプルなテーマ(なのか?)を提示した後、中間部では先ほどまでバックにいたベースが全面に出、電子音の溢れる中でキーボードがソロを取る。あれほどシンプルだったテーマが破壊、分節され、音が滝のように流れ落ちる空間を鍵盤が縦横無尽に駆け巡る。そしてその暴れまわる音像の中で再びサックスが姿を表し、シンプルな節回しで混沌とした演奏をまっすぐ導く。そこからの感動的なソロはまるでBowieが彼らを導いていた時の状況を音の形にして表現したかのようである。

 

楽曲の曲想に関しても、Bowie追悼作であったはずの前作「Beyond Now」をもってすら別次元にあると言えるぐらいに多種多様である。coldplayのような「Club Kidd」、Bjorkにボーカルをそのまま置き換えられる「Tiny Kingdom」、ローファイの「New Kindness」、Hip-Hopの「The Opener」、まるでバラバラである。というか統一感ゼロである。そして、その不覊奔放なキャンバスの上を彩る楽器陣が、ジャズであること、管楽器であること、打楽器であることに捉われず、既存の在り方に与しない音の繋がりを描く。

 

まさにBowieが彼らに言った言葉、「どう思われるか、どうジャンル分けされるかは心配しないで。音楽を作ろう」を体現した作品が本作であり、逆に表層的にBowieの音楽のオマージュをしたわけではないため、楽曲の雰囲気がBowieに近いということはない。だがどの曲を聞いても、確かにBowieがこのバンドにいたという確信を持つことはできる。ただいいメロディーを書いていい演奏をするのではなく、音楽を通して人の価値観に影響を与えるーBowieの遺伝子がこうして引き継がれ、そしてまた他の誰かが感化されて新しい世界を構築する。その営みを目撃できるとは我々は幸運である。