Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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バレンタインなのでチョコ味タバコを比較してみる

もうすぐバレンタインですね。私事にて恐縮ですが当日はワタクシことべしちゃんの誕生日です。本年もワタクシ、その次にアポロの優秀なライター陣をよろしくどうぞ。

 

本命・義理チョコ・友チョコ・義務チョコ...今やチョコの形も様々です。

何だか私は当日が誕生日なものでなんとも昔から「友チョコ兼誕生日プレゼント」をもらっては友チョコを返しその渡し主の誕生日にはまたプレゼントを用意し...となんだか損をした気になる日という認識がちょっとあります。えーん!

話は戻りまして、自分チョコなるワードもありますね。そーです、自分へのご褒美は大いに奮うべきです。ちょっと甘いものと美味しい飲み物で一息入れましょうよ。ココアシガレットとかでもよくない?

 

ココアシガレットといえば!タバコは吸われますか?吸うな吸うな場所も与えんぞ〜と喫煙者には肩身の狭い昨今ですが、私はバチゴリの喫煙者です。

普段はラッキーストライクFKを一日10本前後...というのを前提に、今回はバレンタインということで「懐かしのココアシガレットっぽいフレーバータバコの世界」、をちょっとご紹介!

 

増税、大手飲食チェーンの全面禁煙化、ポールモールやしんせいの廃盤、沖縄タバコも残すところはうるまのみ...と、なかなかタバコ事情にもビッグニュースが続く今日この頃ですね。私の愛するラッキーちゃんも460円から500円へ、有名どころだとマルボロも510円、パーラメントなんて今ロングで530円です。エライコッチャ!コンビニで買うたびちょっとゾッとします。

本題に戻りまして、フレーバー系といえばコンビニでも購入可能なピアニッシモシリーズが有名かな?しかし今回はコンビニ取扱がまばらなマニアックタバコのレビューをば…そしてせっかくバレンタインなのでココナッツ/チョコレートフレーバー縛りです。

 

●ブラックデビル

長らく表舞台から姿を消していたオランダ小悪魔ブラックデビル...パッケージとフレーバーネームを一新してこの冬戻ってまいりました!(と言っても以前のブラックデビルを私自身は知らないのですが、)味も変化なく相変わらずうまいと評判。以下全4品目中ミントバニラ味を除く3品目のレビュー。

・ブラックデビル・オリジナル(10mg/480円)

ブラックのパッケージに開封すると巻紙やフィルターまで黒。プルーム・テックっぽいです。ちなみにオリジナルという銘打ちながらココナッツミルク味。ケミカルすぎないマイルドな吸い口でおやつ食べている感覚、しかしながら10mgと吸った感も抜群。

・ブラックデビル・カカオ(10mg/480円)

カカオだ...ビターな味わいながらフィルターに塗布された甘味はかなり他のフレーバー系と比較しても甘め。唇ぺろぺろしちゃいますね。甘さ要素がフィルター依存な分ちょっとケミカルな味に感じるような...

・ブラックデビル・モカバニラ(10mg/480円)

ブラックデビルシリーズだとこれが一番お気に入りでした!独特の甘みと煙量がマッチしてタバコやなあと思いつつもおやつ感覚。ブラックコーヒーとよく合います。ただ副流煙の匂いはダントツで妙みたいで、食事の場ではお勧めできません...

 

昔から一定数のファンがいて、復活もちょっとした騒ぎになったというブラックデビル。なるほどなあという感じです。しかし、それほどの人気を誇る銘柄...ということは類似品ももちろん...あったー!!

 

●ブラックスパイダー

こちらはタンザニア産で、チョコ・ココナッツフレーバーの展開はブラックデビルと同じくカカオ(チョコレート)、カフェバニラ(モカバニラ)、ココナッツミルク、アイスバニラ(ミントバニラ)と名前こそ違うもののほぼ同展開。18年11月デビューです。

全部...と行きたいところですが前項デビルで一番気に入ったモカバニラ味の同展開品カフェバニラに絞ってレビューです。

・ブラックスパイダー・カフェバニラ(11mg/460円)

まさかの巻紙・フィルター黒色統一と、デビルとめちゃくちゃ近いデザイン。パッケージは何だか厨二心くすぐられていいですね。あーでもちょっっとケミカル味が強いかも...タール値がすこーし高いのでタバコ味が先行してガツンとくるのですが、それを覆うようにキツめのフレーバーがやってきます。でもこっちの方が「話が早い!」って感じはしますね(?)

ちなみにブラックスパイダー、各フレーバーにシャグ(手巻きタバコの葉)バージョンも発売していて、しばらく諸事情にて流通数自体が減っていたようですがこの度再び順次入荷可能だそう。

しかしブラックスパイダーはただの類似品ではなくジュースフレーバーシリーズがまたよくて...がまたそれは後ほど!

 

●ARK ROYAL(アークローヤル)

ARK ROYALをご存知でしょうか?パラティーこと紅茶味でオレンジ色のパラダイスティーで有名な何だか全体的にオサレでカッコいい銘柄です。

こちらもこの冬新フレーバーが登場し、その名もなんとブラック・ココナッツとブラック・チョコレート。バレンタインを目前にして、奇しくもブラックデビルの復活を皮切りに洋モク界隈はココナッツ・カカオフレーバーの三国志状態になっております。(そんなに需要あるんか...!?)

ちなみにこちら2品、コンビニ取扱を一応確認しました。もしかしたら一番入手しやすいかも?

・アークローヤル ブラック・ココナッツ(9mg/480円)

さすがROYALの名前を冠するタバコなだけあって、めちゃくちゃ上品な味がします。アメスピを彷彿とさせる燃焼のもったいぶりですらなんとなく気品を感じます(?)吸い口は上記2銘柄よりフレーバー感は控えめで、どちらかと言えば煙感の方が残るのですがほんのりクる甘みが美味しい!

・アークローヤル ブラック・チョコレート(9mg/480円)

これここまでのレビューの中で一番美味しい...と個人的には思いました。ココナッツとおなじくフレーバー感は強すぎず上品な味!でもふんわりとした甘みとよくタバコレビューで見かける「コク」とやらが同居しており、コクってこれか〜!と思ったり。あったかいカフェオレにぴったりの冬に吸いたいタバコです。

 

 

...と、なんとも三つ巴状態。他にも手巻きタバコでフレーバー系シャグに強いスタンレーもチョコレートフレーバーを発売していたりと、まだまだ奥が深い…もしも喫煙者がお近くにおられるならば、今年のバレンタインはこんな贈り物もアリかもしれないですよ?ちなみに筆者は親父(echo吸い)にこのレビューで使ったタバコの残りの詰め合わせをあげたところ、大いに気に入ってくれたもののオカンに居間からの出禁を食らっていたので匂いは覚悟の上で…

 

以下余談ですが、チョコ系以外にも少し他のフレーバー系をご紹介!

・アークローヤル アップルミント(9mg/480円)

開封前から青リンゴのすごいいい匂い!ちょっと歯磨き粉を彷彿とさせるので人を選ぶかもしれないですが…開封すると甘い匂いも連れ立ってとっても爽やか。高タールですがいわゆる女性にオススメ系かな?

・ブラックスパイダー ジンジャーエール/チェリーコーラ/アマゾンガラナ(11mg/460円)

もともとのブラックスパイダーの展開はこの3品目。仕入取扱の柘製作所さんが展開しているPRサイト(http://www.tsugepipe.co.jp/black-spider/)がめちゃくちゃオシャレで読み応えがあります、ゴリゴリやんちゃなパッケージからは想像もつかないエモい販促方法、是非ご一読を…

ジンジャーエールはとにかくジンジャーエールそっくりな香り、吸うとどちらかといえばエナドリ系。吸ってるうちにクセになります。(ボディショットという銘柄がモロにエナジードリンク味なるものを出してましたがアレはなんかイマイチ…)

チェリーコーラもちょっとケミカル要素強いかな…と思いつつ気付いたらスイスイ吸ってしまう、ガラナも同じくでした。

どれも開封前に漂う匂いがホンモノそっくりで、ちょっとした会話のフックになったりもします。笑

 

・キーススリム 抹茶ラテ(葉巻/400円)

巻紙の部分が紙ではなく煙草葉を形成したものを用いており、いわゆるタバコとは税区分も違い少し安い葉巻(リトルシガー)。ルーマニア産キースシリーズも400〜420円とちょっぴり安くて、何よりいい匂い!葉巻の最安値だとインドネシア産FORTE270円で(めちゃくちゃ人気みたいですね。たしかにタバコ慣れした人でも違和感なく吸える味でした)、比較するとキースシリーズが「ちょっとええやつ」なのがよく分かると思います。

そして抹茶ラテ味。なんじゃこら、と買ってみたのですが、キース本来の甘みのあるアロマティックな匂いの雰囲気はそのままちゃんと抹茶ラテの味で思わず笑ってしまいました。めっちゃ美味しいです。

 

・ポンポンオペラ リトルシガー/チェリー(シガリロ/550円)

パッケージがめちゃくちゃ可愛い。なんでもカナダの若者に大人気…らしいです、本当かどうかは知りません…

リトルシガーことオリジナルはバニラフレーバーで重めながらスイスイ吸えます。ただやっぱりいつものタバコと違うな?感は否めません。が、美味しい!チェリーはちょっとケミカル強め。駄菓子屋さんのさくらんぼ菓子の味がします。

 

このご時世にタバコデビューなんてそうそう勧められませんが、同志の方は是非ちょっと変わり種の世界に足突っ込んでみませんか?また美味しい・変なやつ・試してみてほしい品など募集してます。そして最後に実在しないタバコ(私作)を見ていただいて締めとします。もちろんこんなものは実在しません。

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べしちゃんでした、ハッピーバレンタイン♡

口の悪い若者2人がQueenを好き放題語ってみた〜第1章・序

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「ボヘミアン・ラプソディ」のヒットに便乗してQueenの記事を書こうとしたミヨシは、大真面目に書けば書くほど文章がだだ滑りし、バンドの本質を捉えられるどころかどんどんと核心から離れていく感覚を拭えず、書いては消しの繰り返しを経た後に1つの結論に至った。

「せや、居酒屋の与太話みたいななノリの記事にしたろ」

以下がその結果である。

 

対談者紹介

 

べしちゃん:Queenをフレディマーキュリーっていうヤバいおじさん率いる医者と学者の副業小遣い稼ぎバンドだと認知していた時期を経て、Killer Queenのえちえち毛皮ニキにWanna tryされた中学時代を過ごしたオタク。約10年ぶりにQueenの沼に呼応され「ボラプ」を見た勢いで退職届を出してきた。今回喜び勇んでタイトル絵をシャカシャカ描いた。

 

ミヨシ:音楽にハマったきっかけはQueenの「Jewels」。以降70年代の音源を買い揃えるが、段々他のバンドにも目移りし、途絶。しかし「ボラプ」を見てから再びアルバムマラソンを再開し、駄作期に正面から突っ込んで悶絶している。

 


 

ミ:さて、映画「ボヘミアン・ラプソディ」が世界中で大ヒットな訳ですが…


べ:嬉しいもんですよマジで。ファンでもないお母さんと見に行って無事沼に叩き込みました。


ミ:つまり、Queenや70年代、80年代のロックを元から聞く層以外を巻き込んだ社会現象になってるわけですね。挙句にはゴールデングローブ賞を取り、アカデミー賞でも有力候補と。


べ:イタコ芸のその先をいってましたもんね。


ミ:イタコ芸とは。


べ:最近のQueenってご存知です?ライブパフォーマンスや商売の展開の仕方について。


ミ:軽くは知ってますが、今一度おさらいしてもらっていいですか?


べ:例を挙げると、2013年ごろから超絶歌上手いニキことアダムランバート氏を携えQueen+Adam Lambert名義である程度の規模以上のライブはやってるんですよ、音源は出してないものの。


ミ:そうでしたねぇ。幾度か来日公演もしてますね。


べ:で、2014年のサマソニでヘッドライナーとして出演してまして、中学の時にダダハマリした身なのでもちろん行ったんですけど…


ミ:どうでしたか。


べ:もちろん本物のブライアンメイがレッドスペシャルを弾いてて本物のロジャーテイラーがドラム叩いてるんですよ。


ミ:そりゃそうでしょう。Queenのライブですから。


べ:アダムランバートだってものすごい実力派シンガーですよ、一大オーディション番組アメリカンアイドル出身ですからね。それでいてアダムランバートの歌唱ではなく「Queen+Adam Lambert」としての歌唱なんですよ、本当にこのシンガーは凄いなと思いました。

でも!「クイーン」という歴史がそれを許さない!


ミ:それはフレディマーキュリーという圧倒的カリスマを考えたら当然といえば当然な話ですよね。Nirvanaも決してパーマネントなバンドとして復活できなかったし、偉大なるフロントマンの不在は埋めようがない。


べ:アダムが歌ってる後ろに映像のフレディマーキュリーがいるんですよ。もちろん感涙ものの演出ですけど、でも…なんか抱いた感想はどうしてもこれは法事ちゃうねんぞ…であって…。

私は96年生まれで現役のQueenを知らないどころかフレディマーキュリーの生きた時代とすら掠っていなくて、生きたQueenたるものを知らないんですよね。


ミ:そうなんですよね。我々世代共有の忸怩たる思い。


べ:で、生で観れてもこの形。仕方ないとわかっていながらなんか寂しいもんですよ。ちなみにFreeやBad CompanyのボーカリストであるポールロジャースをQueenに「加入」させ音源作ったりなんぞはしてましたけど言わずもがな「そういうオチ」になってたので仕方ないもんではあるんですよ本当に。

で、今回の映画です!


ミ:映画という方法を使ってフレディが生き返った 。


べ:言うなれば今まで彼らのチームが行なっていたイタコ商法に変わりはないんですよ、でもQueenはスクリーンの中に生きていて、フレディの蘇生どころかQueen自体がそこに生きてたんですよ。


ミ:やっぱりそのライブ感というのはデカいですからね。それで本人たちも驚くほどの世界的ヒットを叩き出したと。ただ、映画としての出来は若干疑問が残りますが。


べ:でもこの感じ方の差ってなんなんでしょう?モノマネ映画として完璧だったからとかそんな陳腐な理由じゃないとは思うんですけど…


ミ:フレディが亡くなる1991年までのオールタイムベストな選曲で時々モニターにフレディを映して感動を煽るライブという、時間が逆行する「本物」より、デビューに端を発して伝説のライブエイドというクライマックスに向けて前に進んでいく「虚構」の方が、今までQueenを知らなかった人も巻き込んで、リアルタイムの熱狂を追体験させることができたのが大きかったんじゃないですかね。


べ:あ〜ナルホド。そっか前に進んでいくって感覚凄い腑に落ちるな…


ミ:俳優が似てる似てないとか史実との答え合わせじゃなくて、新しく作品として「Queen」を体験するという1つの新作と考えると、かつてQueenが発表してきたものへの人々の興奮をまた味わえることができた。これはあると思います。

で、映画の出来に疑問があったという話に戻るんですが、バンドとしてのQueenのあり方のご多分にもれず、色んな要素を詰め込んだ結果、B級なゴテゴテした中身になっちゃったことについてあんまり触れられないまま、映画界でも傑作扱いされて神聖化されつつあると思うんですよ。

 

べ:ライブエイドで全てを良しとしているところは確かにありますねえ…


ミ:別に映画が現実を描いていないことについて議論しようとは思わないんですが、このままだとライブエイドも含め、神話としてQueenが崇められる雰囲気になってるのに、曲がりなりにもQueenに触れてきた自分としてはちょっと物申したい。


というわけで今回は、Queenがどんなバンドなのか、口の悪い二人が率直に語ってみたいなと思います。

 

 

酒も捗らないオンライン座談会にて妙にアツく厚かましくなる逆張りオタクが二匹。

さてどう舵を切るんだこのタイムリーかつ恐ろしい回は!次号に続く!

20代女性、ストリップ劇場でエモを知る

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あけまして久しいですが如何お過ごしですか?べしちゃんです。

なかなかどうしようもない2018年でした。今年はいい一年にしたいですね。皆さま共に頑張りましょう。

そんなわけでどうしようもなかった2018年の締めくくり、本当にどうしようもなかった1年の最後にデカい花火を打ち上げようとワタクシはストリップショーを観て参りました。その時の話、どうか聞いてくださいまし。

 

ストリップ。その歴史は深く、この国日本においての源流ははるか神話時代まで遡り、アメノウズメの天岩戸の前での踊りが源流とさえ言われています。マジかと思いつつなんだかそんな気もしてきます。

そして現代においてイメージされる劇場においてのストリップショーは戦後間もない1947年、西洋の裸婦画に扮し「額縁ショー」という催しとして生まれたのが始祖と言われ、50年代に入り浅草のフランス座やロック座、新宿セントラル劇場と群雄割拠の時代が訪れ栄華を誇り、性風俗としての枠を超えた喜劇界の重鎮や脚本家を排出する登竜門としての役目さえも得ることになりました。やがて来たる70年代、私の住まう関西において局部をも露出する「特出し」に代表される全裸でのパフォーマンス(全スト)などの登場、加藤茶によるストリップショーをモチーフとしたギャグ「チョットだけヨ」、さらに80年代に入りいわゆるアイドルストリッパーの登場…と劇場型ストリップは一躍栄華を極めます。

が、80年代半ばにおける風営法改正、90年代に入りVHSの登場、アダルトビデオの流通、バブル崩壊による温泉地レジャー産業の斜陽…時代に取り残されたコンテンツとなりうる要素が次々と向かい風としてびゅうびゅう吹くようになると、劇場数も減少し、性風俗自体の形も大きく変化し、現在に至るわけです。

 

現在私の住まう大阪府に現存するストリップ劇場は営業休止中の劇場も含めわずかに片手で足りる程度。最盛期は全国200店舗もの展開があったと言われているのに天下の台所でこの数…時代なんですねぇ…

前置きはともかく、今回私が訪れたのは環状線天満駅より徒歩五分、東洋ショー劇場です。

右を見ても左を見ても美味そうな飯屋しかない天満の街に鳴るお腹を抱えてスタコラサッサと向かいます。飲屋街から少し外れ、ちょっとマンションなんか見えてきてクリーニング屋さんも店を構えた生活の気配が彼方此方に見えてきた頃、見えました。クソデカ青テントに「東洋ショー劇場」と。

 

え、え〜すごい…なんかよくわからんけど気圧される…ひとまず平静を取り戻すために連れ立った友人と2人煙草に火をつけるものの大晦日直前の大阪の風は冷たく、うまく火が付きません。めっちゃ緊張する。

少し深呼吸をし足を踏み入れ階段を登ります。登ります。廊下を歩きます。廊下がめちゃくちゃ長い。美人の広告。まだ歩きます。こんなもんなのか?

生きて帰れるのか心配になってきたところでエントランスに到着。桃源郷はあったんだ…

意外にも券売機で入場券を購入し(3000円)、エントランスにひしめく紳士たちが発するなんだか今まで感じたことのない異様な雰囲気にドキドキします。外国人や、僅かながら女性の姿もちらほら。

とりあえず(飲めないくせに)酒でテンションを上げていこう!と、店内バーカウンターにてレモンチューハイを購入。どエロいほぼ裸白シャツのギャルが給仕をなさっており、プラカップを持って帰ろうかと思いました。

上を見上げれば豪華絢爛、まるで映画「さくらん」のような内装に正月飾りがよく映えます。すこしくぐもった鏡面仕上げの柱や装飾壁は程よくくすみつつもキラキラとした空気を増幅させつつ、奥の喫煙所から漂うセブンスターのきつい香りに安心感すら覚えます。誰もが喋る声をひそめ、それでいて緊張感と変な高揚感を共有しているようで、ちょっとコンサートの幕間のような空気を思い出しました。

ショーは各時間毎の幕間にて全座席入れ替え制で、先のショーが終わった頃黒く重たい扉の向こうからワラワラと紳士の皆様が退出し、いよいよ我々も入場です。レモンチューハイを握る手もすこし汗ばみます。

玄人であろう紳士の横の座席を確保し、劇場全体を眺めるとジャニーズのステージで見るような張り出し舞台に幾重にも張り巡らされたカラースポットライト。張り出し舞台の1番手前側は円形の回転舞台です。

舞台上にはスクリーンが貼られ、やがて奇妙な静寂の中客席移動用の薄暗いライトも落ちて暗闇が広がるとそこに綺麗なお姉さんが投影されると撮影禁止の旨等が忠告され、いよいよ…!!!

 

 

1人目は和装のお姉様。めちゃくちゃ綺麗。息を飲むような鬼気迫るダンスにはためくきらびやかな着物。息遣いすらも聞こえてくるような距離で体温をも感じます。番傘の開け閉めの音でこの空間はリアルタイム、現実に起こっていることなのだ…と否が応でも自覚します。

やがて衣は次々に薄くなり、円形舞台の上に半裸のお姉様が訪れるとその美しい体を惜しげもなく晒し、その度に観客席から拍手が。ただただ妖しく美しく、エロスを通り越した美じゃん…私もお姉様に惜しみなく拍手をおくります。

圧倒されていると気づけばお姉様の演目は終わっており、お捻りダンスタイムへ。妖美な和装姿であったお姉様もなんだか可愛い法被に着替えて笑顔を見せながらよく知るJ-PopをBGMに跳ね躍っています。驚きなのがお客さんが皆さん舞台スレスレまで出られ札束を舞わせます。お姉様はそれをおっぱいで受け取りニコリと微笑みまた次の回収へ。すげえ…かっこいい…バブリー…

ちなみに至る曲中で客席からは手拍子が起こるのですが、全て表拍。客層の高齢化を感じますし、映画SWING GIRLSのラストシーンを思い出しました。

これが一連の流れで、今回私が観覧した回では各々趣向の違うダンスをする3人のダンサーのお姉様が登場し、ひとりひとり各自の演目+先述のお捻りタイムをなさる、という流れでした。今回は和装のお姉様、懐メロで可愛く踊るスケバン刑事モチーフのお姉様、SMチックな白のボンテージでクールに舞うお姉様、といったラインナップ。所要時間は回あたりおよそ1時間強でしょうか。

そして有料の撮影タイム。お姉様達がツーショットや指定のポーズを取ってくださる神タイムです。払えばよかったものの指を咥えて横目に見つつ、我々は劇場を後にしました。

 

ひとりひとりのお姉様の演目にレビューを付けるのは無粋と感じたので、今回の劇場観覧において感じたことをまとめていきたいと思います。

 

もちろん性風俗として欲を満たすために来られている方が大多数なのでしょうが、それに留まらない何かを感じざるを得ません。

ただただ美しいし、しかもそれがそこに在る。なんとも現実離れした空間に思えますし、実際目の前で起きていることが液晶を介さず起きているとは思えないのです。でも、踊り子さんの息遣い、衣擦れの音、ステージの軋む音、色とりどりのライトが織りなす光と陰影、どれも目の前で起きているのです。

現実離れしたというのも、ドエロで淫靡でとても人前じゃ…みたいなことが起きているわけではないのです。女体、いや人体の美がただただ繰り広げられ、踊り子さんの感性から来る振り、衣装、そして図られたタイミングと図り得ないハプニングと、それらが全て人体の美しさを増幅させていきます。生で目の前で起きている事象だからこそ感じるものだと思います。

演目によってはセックスそのものをダイレクトに踊り子さんが演じていたり、そもそも局部を見せつけるタイミングで拍手が起こったりともちろんこれは性風俗である、という一面もありありと見せつけられます。

しかし、それは女性性の消費ではなく、生命として女性が持つ役割への礼賛のようにも見え、そこに確かにいるのに触れられない象徴めいたものとしての女性性はとても神秘的に思えました。

そもそもエロを見せているのではなく、美を見せており、エロは個人の美に内包される要素であってこそ美しいものだと認識させられたのです。

あの場で見た女性達の全てはどうしようもなく美しくてきれいで、それでいて個々で違う美しさ違うエロスを抱いていました。それは言わば個としての女性への礼賛、はたまた人間賛歌のようにも思え、まあなんていうか…途中わりと泣いてました…

 

正直冷やかし半分でいきましたし、私は自分の身体にたくさんコンプレックスを抱えており、なにか嫉妬心の一つや二つでも生まれるのかハタマタあんなのってないよねぇとロクでもない感想を抱いて帰ってくるのかと思いきや…

ただただ美と肯定に溢れた性の形を見て、どうしようもなく感銘を受けて帰ってきた次第です。

なんだか今年は頑張ろうと思いました。自分の感情の整理がつかないままに妙に背中を押される場所です、今の時代だからこそ女性も一度訪れる価値あるかと思いますし女性の追っかけさんもいてらっしゃるのものすごくわかりました。(あとエヴァネッセンスだったりちょっと懐かしの音楽が流れるあたりそういうので笑える音楽好きにもおススメ…かも…?)

共に戦地に赴いてくださったよき友人の両目洞窟人間さん(http://gachahori.hatenadiary.jp/)にも大感謝!何はともあれ皆さんよき一年にしましょうね!べしちゃんでした。

「ソナチネ」の凄み

「北野武」と言われてあなたは何を思い浮かべるだろうか?

 

活動歴の長い人物であるため、人によってイメージはまちまちだろうが、概ねビートたけしとしての破天荒な人物像を想定するところではないだろうか?

自分もその一人で、ふとした気まぐれで彼の監督作品「ソナチネ」を見るまでは芸人としての彼を認識していた。しかし、「ソナチネ」によって彼への印象はガラリと姿を変え、カミソリのような感性を持った強烈な個性の持ち主として彼を見るようになった。

以降、彼の作品を見ていくにつれ、日本人の多くは彼を誤解しているのではないかという疑惑が確信へと変わっていった。間違いなく彼は一流の映画監督であり、そしてパブリックイメージでは想像もつかないレベルの暗愁の持ち主である。彼の死生観は「自殺はもってのほか。命を大切にしよう」「人の命は皆平等」といった綺麗事とは真っ向からぶつかる劇薬で、そんな人間がスタジオでバカやって周りの若い芸能人を困惑させているのである。

 

今回は、自他共に認める最高傑作である「ソナチネ」の解説を中心に、彼がいかに特異な才能の持ち主であるかを浮き彫りにし、欧米志向のサブカル好きからはやや等閑視された現状へ異議を唱えていこうと思う。

 

 

 

 

 

まずは「世界のキタノ」という称号の説明に遡ろう。

実は、「世界のキタノ」と呼称されている「世界」とはハリウッドのことではない。ヨーロッパである。ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞を獲得し、カンヌにも出品はしているが、アメリカの方向での売り込みはあまりなされていない。

「「世界のキタノ」と言っても、少し海外で受けたのを日本のマスコミが大げさに取り立ててやいのやいの言ってるだけで、ハリウッドにまでは受け入れられなかっただけだ」と言ってしまったらそれまでだが、北野武自身、ハリウッドの分業体制=監督の権力の弱さをあまり良く思っていないことを度々明言しており、そしてなにより、作風がヨーロッパのアート気質なものに近い。一々やたらと長いシークエンス、時折挟まる抑揚のない会話、断片的にしか何が起こったのか示さない演出。

作品を重ねるにつれてアート要素は薄まり、「アウトレイジ」サーガに至ってはもはやただのヤクザ抗争映画に成り下がった(僕は好きです)が、初期の彼の映画は尖りすぎていて、興業的に失敗しながらも、評論家内で絶賛されるという、芸能人のアーティスト気取りの産物とは正反対の結果を生み出している。そんな彼の最高傑作が「ソナチネ」である。

 

 

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この画像だけで、なんとなく非商業的な香りを覚える方もいるのでは

引用元:cinematerial.com

 

あらすじ

北島組傘下の村川組組長の村川(ビートたけし)は北島組幹部の高橋(矢島健一)の命の元、沖縄の阿南組と抗争している友好組織の中松組への手助けを命ぜられ、子分のケン(寺島進)や片桐(大杉漣)を引き連れて石垣島へと向かう。到着早々阿南組に襲撃され、一行は用意された隠れ家へと身を潜める。手助けといっても出て行けば襲われるので特にすることもなく、村川は近くの浜辺で男に襲われていた女、幸(国舞亜矢)をチンピラから救ったのを機に交流を深め、ケンは阿南組の良二(勝村政信)と意気投合し、退屈な時間を浜辺で潰し、一夏を過ごすのだが、そこにも殺しの手は迫り……

 

…これだけ読んで心が惹かれるだろうか? びっくりするぐらいありきたりである。実はここまでフツーな話を用いるのはキタノ作品では結構あるあるで、彼の強みはシナリオそのものの独自性ではなく、いかに普通の話を再構築するかというところにある。

そんな彼の再構築の特異性を見ていこう。

 

 

徹底的なミニマリズム

 

 これはキタノ映画のほぼ全般に言える特徴だが、彼の映画は最小限の事実で最大限の情報量を語る。

以下の動画にあるが、彼は映画の撮り方について、対局後の駒の配置を見ればそれまでの戦いがどういうものだったか分かる将棋を引き合いに出し、1つの絵でそこまでの過程が見えてくるようにを撮るべきだと主張している。商業映画にありがちな、「黒幕が主人公の見えないところでほくそ笑む」「頼んでもないのにやたらと解説する敵役」といった分かりやすい演出はなく、いきなりズバッ、あるいは間接的な行動で全てを伝える。

そういうわけで、キタノ映画はぼーっと見ているだけでは話が大して進まないので地味だな、と思っていると一気に展開が変わる。その手の映画に慣れていないと不親切な演出なのは確かだが、長閑なシーンから一瞬で血の海に変わる様は見ものである。

また、シークエンスに限らず俳優の演技も同様にミニマムであり、ヤクザ映画の売り言葉に買い言葉な展開はこの時期のキタノ映画ではほとんど見られない。組への上がりの支払いを渋る雀荘店主を村川が恫喝する冒頭のシーンが例として分かりやすいが、「テメェ殺すぞ」だとか「バカはテメェじゃねえか」だとか不穏な言葉が飛び出てくる割に口調は淡々としていて、怒声でとりあえず観客の気を惹くという意図はゼロである(この喋り方は彼のヤクザ稼業への倦怠感を示す演出でもある)。そもそもセリフ量自体、初期のキタノ映画ではかなり少ないが、演技に関しても大根演技かと思うぐらいに抑揚のないfセリフなりアクションなりが特色である。それも全ては映画全体の濃淡のために仕組まれた演出の1つである。

更に言うならば、彼の決め台詞「バカ野郎」の使い方もうまい。バラエティー番組でビートたけしとして使っている以上に、キタノ映画では「バカ野郎」が連発されるが、場面場面でそのニュアンスは異なる。本当に相手を罵倒する「バカ野郎」だったり、相手に親しみを込めての「バカ野郎」だったり、非常に感動的な「バカ野郎」だったりとその意味合いは多岐に渡る。これも彼のミニマリズムが活かされている好例だ。

 

 

「キタノブルー」と色彩感覚

 

「キタノブルー」はキタノ映画に触れたことがない人でも聞いたことがある人は多いだろう。 ソナチネは夜の場面が続いているため、他のキタノ映画よりもかなり暗いのだが、他の作品でも彼の用いる青は従来の青より暗い。「夏の空」「海」などの生き生きとした「陽」を表す方の青ではなく、どちらかというと「静脈」「血の気の引いた顔」といった、静謐で「」を表す方の青である。

それを象徴するかのように、キタノブルーの炸裂するシーンではよく殺人が行われる(全てのシーンでではないが、本作ではとりわけ顕著である)。夜明け前のようでいてどこか非現実的な明るさは、此岸と彼岸を繋ぐ生死の境目の世界を思わせる。

また、どこかを歩く長回しのシーンでもキタノブルーはよく見られるが、彼の徒歩シーンは大概場面と場面の繋ぎ、つまりは緊張と緊張の合間の弛緩を促す境界的役割を果たす。そこにどこか醒めた色合いのキタノブルーが差し込まれることで、彼らがどこか遠い世界にいることを匂わせ、映画の中では比較的現実世界に近いシーンであるにも関わらず、幻想的で退廃的な空気を漂わせる。

まさにミニマムかつマキシマムな情報量を有した演出技法である。色彩を演出に用いるのはゴダールなどにも見られるテクニックではあるため、彼なりのオマージュの一環とも言えるが、固有名詞を産み出すほどの絶妙な青みは、彼オリジナルの演出方法と言っていいだろう。

 

この予告編でも一瞬だがキタノブルーを確認することが出来るが、闇へと飲み込まれそうな色合いの青である。

 

劇的な演出

 

前述した二つの特徴を更に展開して言うと、本作ソナチネはとりわけ強烈な演出が目立つ。

下に貼った動画で抜粋されているのは、村川たちに堂々と歩み寄ってきた殺し屋が村川の子分のケンを殺して悠然と去っていく一部始終を、なんら装飾的な演出をすることもなく淡々と映しただけのシーンだが、ここでも彼のミニマリズム、色彩感覚は縦横無尽に駆使されている。

それまでの流れを解説すると、阿南組からの襲撃以降、村川たちは隠れ家に案内され、近くの浜辺で「ぼくのなつやすみ」よろしく子供じみた遊びを延々とやっている。ヤクザであることを忘れたかのように遊ぶ彼らを淡々と映す映像が続き、間延びしまくりにしまくった挙句、この突然の銃声が常夏の浜辺の空気を切り裂く。

キタノブルーとは違い、石垣島の空と海という生の源である「」を背景に、子供から大人への順当な成長に失敗したヤクザたちが、現実逃避の歪な「」の空間で遊んでいる。そこに前触れもなく殺し屋が侵入し、一筋の「」とともに「」がもたらされる。

この動画だけだと不可解なまでに動かないケンと村川のリアクションに疑問を持つかもしれないが、本編をここまで見てきた人間は、ほのぼのとした遊びに長々と興じてきた彼らと同様に突然の死の香りに対処できない。無邪気に遊びに興じる中盤のシーンは、間延びと見せかけて実はここでのインパクトを強めるための伏線だったのである。

他にも、全編で活躍する久石譲の音楽がここぞという山場で霧散消失したり、バイオレンスの中に笑いを仕込んだりと、急激な変化、強烈な対比を示す演出によってキタノ作品はトラウマ級のインパクトをわれわれに植え付ける。

 

 

 

 

虚無的な死生観

 

これこそが「芸人がカメラ持ってる」という認識を打ち砕く決定打だと思うのだが、彼の初期作品、特にソナチネまで=バイク事故で生死の境を彷徨うまでで見られる死生観は、思わず唸ってしまうぐらいにニヒルで醒めている。

劇中で、村川が幸に向かって「あんまり死ぬの怖がってるとな、死にたくなっちゃうんだ」と表面的には矛盾した発言をしているが、まさに初期キタノ作品を象徴するセリフだ。彼らは誰かを殺せば殺すほど、自分も死の側に引き摺りこまられていることを自覚し、恐怖を覚えるのだが、あまりにもグッと近寄ったせいで、逆にその暗がりに魅了されている。どす黒く汚れた人間である自分をも包み込むことができる暗黒の「死」。

 

フロイトでいうエロスとタナトスの構造がぴたっと収まる。人は生に対する欲望を持っている一方で、死に対しても積極的な姿勢を心のどこかでは持っている。

死にたくないけど、死にたい

圧倒的な矛盾が、赤と青、綺麗な青と薄暗い青、幼児性と死といった対比の中でグロテスクなまでに鮮やかに描き出される。否、「死」の強大さの中では全ては帰納されるのだ。

彼はこの映画に対して「死を通して生を描こうとした」と説明しているが、主人公の死に向かって生き続ける様は決して命の尊さだとかそういうものを語るのではなく、死をすぐ隣にただ存在するものとして物語る。キタノ映画は大体主人公のビートたけしが自殺にしろ他殺にしろ死を迎えて終わるが、それは信賞必罰や死刑論者のような「殺したのだから死ぬべき」というような単純な話ではなく、「あまりにも死に近づいた生者は死者と紙一重」というメッセージを有しているように思えるのだ。

言葉にするとどうにもまだるっこいが、このニヒルな死生観を彼はわずかなセリフと研ぎ澄まされた演出で表現する。このセンスたるや、日本人監督が珍しく海外でウケたとかそういう次元の話ではない。

 

 

 

以上でソナチネをメインとしたキタノ映画の素晴らしさのプレゼンはおしまいである。

ちなみに本作はそれまで作ってきたキタノ作品があまりにもアート気質で、業界人以外からは黙殺されてしまい、最後にやりたいようにやってそれで売れなかったら映画業は終わりにしようという気持ちで作っただけあって、全く客が入らなかった。

その後、バイク事故で死にかけたのを境に作風が生に近寄るのだが、事故直前は、プライベートな問題に加え、映画が世間的に認められないことへの鬱憤で一種の鬱状態になっていたらしく、この「ソナチネ」を作っていた頃、主人公の村川と同じく、北野武自身もかなり死に取り憑かれていたのではないかと思うと、ゾッとしたものがある。

言わば逃亡に近い石垣島ロケでの楽しそうなメイキング映像を見ていると、歪な「生」とは当時の北野自身を取り巻く状況のことだったのかもしれない。そう考えると、撮影後のバイク事故から生還したのは奇跡と言っても過言ではないだろう。

退廃の匂いが漂う「ソナチネ」は、撮影者自身の幻影でもあり、撮影者を蝕む恐るべき死への誘いでもあった。その上でこの作品を見ると、我々が対峙するものは、1文化作品が提示するものとしては手に負えないぐらいに強大で深遠なる闇であることに気がつくだろう。