Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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「カメラを止めるな!」のテレビ放送がすこぶる不評だった訳

「カメラを止めるな!」が地上波で放映された。

 

 

 

 

前書き

2016年の「この世界の片隅に」や「シン・ゴジラ」、そして歴史的ヒットを叩き出した「君の名は。」を思い出させる口コミからの大ヒットで、ミニシアターでの上映からシネコンの巨大スクリーンに移行し、あのドン引きの低予算映画「ONE CUT OF THE DEAD」のどうしようもない寸劇を観客に浴びせるという異例の事態になったこの映画。

もちろん劇場上映当時から100人中100人が絶賛していたわけではないし、今回も「劇場で見てなかったけど面白かった!!」と言っている人はいた。

だが、地上波放送を経た今、Twitterで2019/03/10 20:45現在「カメラを止めるな 面白い」「カメラを止めるな おもしろい」で検索候補が合計120件なのに対して、「カメラを止めるな 面白くない」だと単独で730件が候補として提示されてしまう。

無論、検索ワード次第で異なる結果が出てくることはあるだろうし、ネガティブな検索候補の方には、面白くないと言っている人にある種の啓蒙活動を行っている熱心なファンのツイートが紛れていることもありうる。それにしてもここまで差をつけて「面白くない」という意見が溢れかえってしまうの何でなのか。

それに対して自分の仮説を表明していこうと思う。

 

言い忘れていましたが、ネタバレ、余裕であります。

(こんな記事をわざわざ読む人がネタバレを嫌がっているとも思えないですが...)

 

そもそも見る層が...

これは後の結論に吸収される要素であるが、そもそも地上波で初めて見るという人は「劇場まで行こうとは思わなかった」「そもそもあんまり映画見る習慣はないけど話題だから見る」ぐらいの心構えであり、毎秒出演者の一挙一投足に注目してテレビにかぶりつき、なんてことはまぁ、ない。「酒の肴に」、「何か作業のお供に」ぐらいの軽い気持ちで見るのに関わらず、冒頭からいきなりぶりっ子女子がゾンビと化した彼氏に「やめて〜!」と恐るべき大根演技で抵抗し、その一連の流れが劇中劇の世界であることを即座に示すため、演技の下手さを怒涛の勢いで罵倒する監督が登場し、正直面食らうことは間違いない。

自分もあまり興味のないジャンルに気まぐれで手を伸ばしていきなりこんなことをされたらまず心が砕ける。気まぐれで地元の常連しかいなさそうな居酒屋に行ったら、「ボンジュール」と言わなかったがために全客から白い眼を向けられる、なんてことがあったら二度とその店にはいかないだろう。

開始10分でチャンネルを変えた人、その人は正常な判断が出来る人だ。

 

40分耐えたが...

「ちゃんと見たがつまらん」「で、何が面白かったの?」このような意見も散見される。無事地獄の前半を潜り抜けて、ハマった人からしたら「本編」である、劇中劇の舞台裏、という体のもう一つの「劇中劇」、これも面白いとは思えなかった人々だ。この人たちもある意味、正しい。

この映画のあらすじを文字に起こすと「ワンカットかつ生中継で撮ったゾンビ映画が、実は様々なトラブルと偶然が積み重なって出来たヒヤヒヤする産物であった」という、楽屋落ちを人口に膾炙しただけと言えばそれまでの、とても斬新かというとそうでもない内容である。強いて言うと、「「ゾンビ映画を撮ろうとしていたら本当のゾンビが出てパニックに陥る」という映画を撮っている人たちの舞台裏」というメタが二層になっている複層構造になっている点にやや斬新さがあるが、意地悪な見方をすると、今までも用いられてきたメタ手法を二重にしただけで、画期的作品というわけでもない。じゃあ何故受けたのだろう。

 

「カメラを止めるな!」は「劇場型劇場」映画だ!

「劇場型犯罪」という言葉がある。犯人の手によって、まるで劇場の演目のようにドラマチックに仕立て上げられた犯罪のことだ。凝った声明文を出したり、ゲーム感覚で対象者に選択を迫ったり...劇場の変種とも言える映画でもこの手の犯罪は取り上げられ続けてきた。クリストファーノーラン監督の「ダークナイト」で登場したジョーカーの、言葉を失うレベルの残虐性に背筋を寒くした映画ファンも少なくないはずだ。

じゃあ「劇場型劇場」とは何なのか。自分の造語なので誰も知らないのは当然だ。というか、この映画ぐらいにしか適用できない(笑)。

「劇場型劇場」とは、共犯者たちの手によって、まるで劇場の演目のようにドラマチックに仕立て上げられた劇場の作品のことだ。これで「カメラを止めるな!」は劇場でバカ売れしたし、逆に地上波では酷評された。

 

...?どういうこと?

「共犯者」の定義は全体を順序立てて話すために後回しにするとして、「劇場の演目のようにドラマチックな劇場の作品」をもう少し分かりやすく説明しよう。

知られるように「カメラを止めるな!」は低予算映画であり、スペクタルやCGなどとは無縁である。そんな状況で「ゾンビ映画を作る!」と宣言したところで、グロテスクな見た目のリアルなゾンビが大挙して押し寄せる絵を想像する人間など当然いない。むしろ、「もっと普通に人間関係を描いたドラマを描いたら良いのに...」なんてネガティブな印象のまま見てしまう人も多いだろう。この時点で、この映画には「いかにもなフィクション」は予想されていない。要するに観客に本作品が「劇場型」であることは期待されていないのだ。

そんなマイナスのスタートで、冒頭「俺の映画を台無しにするつもりか!!」と映画内のメタ構造の上位者が暴れ狂うシーンを見て、「なるほど、まぁ考えたなぁ」と大体の人間は一応は心を許す。つまり、制作側の「自分たちの立場を分かってますよ、低予算で真面目にゾンビ映画を作っても面白くならないですよね」アピールで、頑なになっていた観客の心をまずは溶かすのである。そして、低予算故に予算もキャストも微妙な状態である現実を逆手に取り、「大根演技だったヒロインがカメラから外れた瞬間に自然なリアクションを行う」などと更にメタなネタを投下してしまうことで笑い話にする。舞台上に金を使えないなら、徹底的に劇場の設備を整えてしまえば良いのだ(そりゃ現実だと設備投資の方が高いかもしれないが)。その上で、「ゾンビ映画を撮っていたら本当のゾンビが出ちゃった!!」という新たなメタ構図を投入することで一捻り二捻りした物語になり、ある程度作品を受容するモードになった観客は「うーむ」と唸るのである。てっきり劇場の座席やフードに拘る映画だと思っていたら、ちゃんと演目にも拘るのね、と。

 

とはいえ、一度人々の歓声は止む。いくら頑張っていても、どことなくぎこちない。冒頭で早くも監督が不在になった後、残された3人によって交わされる会話のテンポの悪いこと!そして、録音スタッフは伏線もなくいきなり激昂して建物を飛び出すし、挙句には酔拳を披露するゾンビだっている。「本当は駄作だったのではないか」そんな悪夢のような時間を過ごした上で最後にデカデカと出る「ONE CUT OF THE DEAD」の字。ここで今まで悶々としていた客は自分たちが「劇的な展開を期待されていなかった劇が劇中劇の劇中劇であり、その劇的などんでん返しによって作品の全てがドラマチックな劇に一変する」というトリックにしてやられる。 

 

何故「劇場型犯罪」という言葉があるのか。それは「犯罪の殆どはドラマチックなものではない」という共通認識に基づいている。じゃあ「ドラマ」とは何なのか。これは定義が難しいが、「現実の人間と行動規範を一にしながらも行動がデフォルメ化された架空の人物が、その行動規範に基づいて行動するフィクション」としたら、ある程度納得してもらえるのではないか。

現実でものすごい勢いで振り返って二度見をする人間は中々いない。もちろん、二度見自体は現実に生きる多くの人間がする行為で、行動のためのルールは現実と虚構と共通だが、ドラマの人間はそのルールから生み出される結果が少々大げさである。そうなると、複数人が交流していくうちに現実以上の衝突や調和、あるいは愛情が生まれ、物語が動く。

 

「カメラを止めるな!」内の「ONE CUT OF THE DEAD」 に出てくる人物は行動規範が非常に歪だ。後半パートでその違和感は全て清算されるのだが、前半の時点で観客は「あれ、こいつらって行動規範すら現実の人間と違うのでは?」という不安に駆られ、どうしようもない居心地の悪さに襲われる。そこで10分切りの人が続出したのではないか。

しかし、いざ最初のEDが終わると、劇中劇の怒涛のネタバラシが始まる。やれ、会話がぎこちなかったのは完全アドリブだったからだの、激昂した録音スタッフは下痢だっただの、酔拳ゾンビは本当に酔拳だっただの。ここで作品は「デフォルメされた人間だけが存在する世界」に移行し、観客に「ドラマチックではない」ことが自明とされた「ONE CUT OF THE DEAD」から、ドラマチックな「カメラを止めるな!」に移行するのだ。

 

さて、ここで評価が真っ二つに分かれてしまった原因がある。

「劇場型劇場」は比喩的なフレーズであるとともに、直接的な描写でもあることにその答えが含まれている。

「ONE CUT OF THE DEAD」というタイトルコールが前半のクライマックスになっているわけだが、ここでずっこけられるのは、「本物の劇場」=「映画通ばかりが集まるミニシアター」の観客であって、テレビという「仮想の劇場」で本作を見た、「ホラー怖いから1作も見たことない」という観客には「はてな」だろう。

もちろん、ホラー映画好きには言うまでもなく、このタイトルは1978年の映画「ゾンビ」の原題「DAWN OF THE DEAD」のパロディーなのだが、それだけでなく、「SHAUN OF THE DEAD」や「インド・オブ・ザ・デッド(原題は異なる)」など、洋邦問わずゾンビもののコメディーに使い回されてきた構文でもある。そのパロディーのパロディーという構造をつかんだ上で、「B級ホラーの定番である手ブレするカメラワーク」×「通好みの映画あるあるのワンカットという手法」という更なるオタク知識を知っていないと、「爆笑」とはならない。

つまり、しっかり「劇場」に通う層でないと、その「劇場型」たる構成は分かりにくくなっている

ここで先ほど割愛した「共犯者」という言葉が絡んでくる。この作品が真価を発揮するのは、「監督」と「観客」、この両者がしっかりとタッグを組んで、面白いと思えるポイントを逐一拾い上げていく作業が必要なのだ。二者による共犯行為。これが上映当初の大絶賛の理由でもあろう。オタクとクリエイターの蜜月状態にあったがため、あそこまで拡散されたのだ。

やがてその評判は少しずつ映画に疎い層にも広がり、地上波で放送されるに至った。そこでブーイングの嵐が吹き荒れたのも、さもありなん。この記事の冒頭で示した、見る層が映画にそこまで熱心でないからウケが悪かったというのはそういうことなのだ。

 

つまりは...

 

謂わば本作は究極の内輪映画である

一応普通に見ても楽しむことはできるが、B級映画、自主制作映画など様々な出来の映画をくぐり抜けた上で見ることで、真価を発揮する映画であることは否定できない。

 

Netflixなど、映画館に通わずとも映画をいくらでも漁ることが可能な時代にこのような「分かる人には分かる」ネタをガンガンぶち込む映画はリスキーかもしれない。だが考えてほしい。

制作費300万の映画を映画に疎い層までが見るなんて誰が予想できただろうか?

趣味や文化が多様化していく中で、社会の全員に合わせた作品を作るよりも、ニッチであっても1つの完結したコミュニティー全体を震わせる作品を作る方がより妥当であろう。

そういう点では、「カメラを止めるな!」がテレビで放送されて評判が悪いのは必然であるし、むしろそのことは「カメラを止めるな!」が制作上観客に不実な態度を取っていたということを微塵も意味しないと言っていいだろう。

 

本来はごく小さい界隈で盛り上がって終わるだったはずの作品がSNSなどの評判で世間に引っ張り出されて賛否両論を生み出す。

名もなき人々の声が業界を動かした事例として、今後の起こりうるだろう珍事のパイオニアとして、本作が評価される日が来るかもしれない。

 

 

あぁ、また見たくなってきたなぁ...