Apollo96

地球の月から文化共有。音楽、映画、文学、旅、幅広い分野を紹介します。時々創作活動も。

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口の悪い若者2人がQueenを好き放題語ってみた〜第3章・Q

 

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QueenはこんなにオラつかないよなbyApolloBeshy

なんだかテレビでQueenの名を聞かぬ日はないほどの旋風が巻き起こっている昨今ですが、申し訳ございません通常営業で参ります。 口の悪い若者2人がQueenを好き放題語ってみた〜第3章・Q、行ってみよー!

 

第一回の模様(映画「ボラプ」と2010年代のQueenについて)→

moon-milk-overtrip.hatenablog.com

第二回の模様(「戦慄の王女」から「JAZZ」までのキャリアをおさらい)→

moon-milk-overtrip.hatenablog.com

 

べ:「Jazz」はかろうじて初期キャリアにおけるQueenのアルバム作りのキモである「コンセプト性」を柱にするという体裁を保っていたものの…って話でしたね。 その後に続く「The Game」、「Hot Space」…どうでした?


ミ:ここからはもう隠しきれないレベルで別物の作品ですね。アルバムを1stから聞いてる人は分かるんですが、初期のアルバムではお約束だった、終盤に大団円な楽曲とアンコール風の小品を入れるという流れがなくなってしまうんですよね。そして、それ以上に目につくのがリズム隊のコンポーザーとしての存在ですね。


べ:ディーコンが一発当てちゃうんですよね!


ミ:1番最後に曲作りを開始したジョンちゃんが最初にアメリカ市場をかっさらっていく笑
一方で、ロジャーもニューウェーブオタクとして、異質性をもたらしてくる。


べ:今まで各アルバムの箸休めイージーポップ担当とカラッとしたロックンロール担当だった2人がじわじわポテンシャル見せてくるんですよね。

 

ミ:こうやって後から変遷を見てみると、デビューが同世代より数年遅れたことと、ライブが下手でスタジアムバンドになってなかったことが幸いして、年齢の割にはまだ新しい時代に向けて切り返せるポテンシャルがファンベース、バンド、個々のメンバーとそれぞれにあったんじゃないかなと思います。


べ:英国と異なるシーンを持ってたアメリカ市場への参入時期も良かったですよね。
ここで面白いなって思うのが、その転換期ごとに髪切ったりヒゲ生やしたりなんか知らないけど、綺麗にビジュアルイメージごと切り替えてくるの…あれなんでなんでしょうか?わかりやすくてありがたいんですけど笑


ミ:デヴィッドボウイもそういうところはありますね。パンクとニューウェーブを真の意味で乗り越した仲間として見ると、その後両者がスタジアムを埋める直前にコラボしたことは感慨深いものはあります。


べ:両者とも商売って観点においてビジュアルも立派な商材であると自覚してる人達ですもんね(ライブも商材やぞって言いたくなる時代ありますけど)。


ミ:Queenは反射神経が良い、ボウイは思慮深い(もちろん研ぎ澄まされた時代感覚の持ち主ですが)という因子がイメチェンに帰結したんでしょうか笑


べ:なんか通知表つけてるみたいになってきましたね。みんな可愛い〜(白目)
まあそんな話が出たところで分かりやすくフレディマーキュリーにヒゲが生え散らかして1作目、ディーコン作「地獄へ道づれ(Another One Bites The Dust)」行ってみましょうか。


ミ:(ラジオか?)


べ:劇中でもハイライトとして用いられており史実としても一番大きな転換期だったと思うんですけど、ディーコン作のこれが当たっちまったが故に次作「Hot Space」が爆誕し大爆死!というのが通説ですけど…

 


べ:ぶっちゃけ今2019年に聴く「Hot Space」はいうほど悪くないんですよね?笑


ミ:そうですね。初期以来に久々に野心的なQueenを聞けるので良いアルバムだと思います。とはいえ、フレディのソロがディスコに走ったことを考えると、ジョン以外のメンバーの欲深さから生まれた脱線作なのはほぼ間違いないですが笑

少なくとも、「The Game」みたいに、保守派メイによる時代錯誤ハードロックナンバーと、流行分かってるキャラのロジャーによるニューウェーブ風という名の実質デモソングとがとっ散らかっている構図よりはずっとマシです。


べ:地味にアルバム構成も初期っぽい。


ミ:「Queen II」よろしく、A面がリベラルサイドで、B面が保守サイド。

 

べ:前作「The Game」に無かった、なんなら「News〜」あたりから怪しかった「洗練」って要素が戻ってきたんですよね。


ミ:これは完全な想像なんですが、ディスコ文化の80年代って、シングルが重視されたと同時にDJの曲繋ぎのセンスがより求められるようになった時代ですよね。その辺りの文脈が関与してるのかなとはちょっと思います(「The Works」聞いたらそんなことなかったですが)。


べ:なるほどねー…それもあるのか…確かにバックグラウンドミュージック文化に基づいた作品と考えた時、後に自前の曲をがっつり目見開かせて聴かせるスタジアムバンドとして成長していく中で鬼のように「Hot Space」曲がセトリ落ちしていったのも頷ける。

 

 
べ:で、ライブ作品でいうと「Queen On Fire」や、高画質映像作品として残った「Live At Montreal」がこの辺りで出てきます。もうここまできたらあの75年のクソライブなんやったんやと思えるクオリティですよ!


ミ:この頃になると大分みんなの知ってるQueenなんですよね。

 

べ:ヒゲも生えてるしね。短パンやしね。


ミ:この頃のミュージックライフってフレディをどんな扱いしてたんですかね笑


べ:昨今のボラプブームでミュージックライフのクイーン記事の再発本が話題ですが、アレを持ってまして…見てみたところ正味ロン毛やってた頃の記述に重きを置きすぎで、この辺は目立った扱いなかったです。悲しいな…


ミ:それでも西武球場でライブやってますから、日本での人気はむしろ伸びてるんですよね。

 

     


ミ:で、「Jazz」に引き続き、「評判悪かったから前の路線に戻す」を敢行した「The Works」ですが、まさかの「「The Game」でやらかした、とっ散らかり路線に復帰」というリスポーンキル案件。


べ:そのかわりめちゃくちゃライブ映えするというかアルバム半分シングルカット状態なんですよね笑 で、今やあまり言われることもない南アライブ事件もこの辺と…


ミ:一応、アパルトヘイトへの異議を唱えに行くという大義名分を敢行したことである程度の汚名を雪いだのですが、南アが国際的に総スカンを食らってる状態でライブしに行ったら、南アを国としてまともに認めた上での行動だとか言われて相手側に良いように利用されるかもしれないという可能性は無視された、Queenのエンターテイナーとしての軽薄さが出た、良くも悪くも彼ららしさが頂点だった頃ですね。


べ:今や「ザ性善説」のもとに成り立ってる人徳者バンド的立ち位置ですけど、商売を見てるとどうなんかな?やり方が何かと軽薄やな?って思っちゃう主たる原因ですよね。


ミ:この頃のフレディのインタビュー読んでると、「無名だけど良いクリエイターなんてのはナンセンス、売れなきゃ無意味」みたいな、よく炎上しなかったなって発言がサラッと出てきたり、10年以上に渡って持ち続けてきた彼らの考え方であったりやり方であったりの蓄積が噴出してるんですよね。


べ:ツイッターなくてよかったですね…


ミ:それを言うと大体のバンドはあの当時の社会だから穏当に売れたんですが笑

 


べ:で、そんな南アを経由して、「The Works」リリース1年後に例のライブエイドです。

 

ミ:あのライブは確かに素晴らしいですし、テレビ中継で世界中の人間の目に止まったのがバンドの世間での評判と団結力を復活させたのは間違いないでしょう。
ただ、1つトリックを言うとしたなら、ライブエイドでは他のレジェンド枠が醜態っぷりを晒したってのがあるんですよね。


べ:ライブエイドのウィキペディアけっこうエキサイトしてて面白いですもんね…


ミ:あそこに書いてないのだと、Led Zeppelinのフィルコリンズを招いて再結成(後に失敗と認める)やQueenと入れ替わりに凋落していったボウイの急造バンドによるやっつけ仕事など、全てが悪かったわけではないものの、Queenの追い風状態が醸されてしまってるんですよね。


べ:でもあの20分間にできることをやり尽くした構成力と楽曲の強さと持ってるカリスマはやっぱりガチなんですよね…ステージは同じくウェンブリー、1年後に言うなればライブエイドの延長と言えるような大規模ライブマジックツアーを敢行した訳ですが、あれでいよいよライブバンドとしてのQueenが成熟しますよね。


ミ:あれが4人で最後のライブになってしまったのが、ロック界最大のwhat if ですが…ただ、この時期においても、初期の下手くそライブ時期から変わってないものもあるんですよね笑


べ:どんくさいブライアンの振る舞いかな…!?例えばどういうところにそれを感じます?


ミ:Wembleyのセトリが分かりやすいですけど、「One Vision」〜「Tie Your Mother Down」と、新旧のハードロックナンバーでキメて間髪入れず3rdの終曲「In The Lap Of The Gods」でクライマックスめいたのシンガロングを煽るんですよ。これで最初の10分。


べ:濃厚〜。


ミ:それ以外そこまでおかしくないものの、所々曲の使いどころがおかしい笑

 

べ:とはいえ、謎のフレディソロもクソ長ギターソロも様になってるし成長ってやつですよね。後出し上から目線。

 

 

ミ:そしてその時期に出た「A Kind of Magic」。僕はこれ以降のアルバムをしっかりとは聞いてないので、解説をお願いします。


べ:映画「ハイランダー」のサントラとしての役割を兼ねているんですけど、フラッシュゴードンの時のようなバチバチのサントラではないので1アルバムとして楽しめます。サントラな以上コンセプトは確立した作品なので、初期作品のようなコンセプチュアルな部分も併せ持ちつつこの時期の楽曲の派手さももちろんあって非常にQueenっぽいアルバムです。


ミ:やはりこのアルバムで復活したという声が多いですよね。

最近になって生き残り組がエイズを知らされたのがライブエイド後とか暴露しだしたので、本作の意味合いもまた変わってくるんですが...


べ:そこはなにも映画のタイミングで真偽のほどは別にしろ口出さなくてよかったと思ったんですけどね。ああいうところあんま良くない。


ミ:映画の不死の主人公たちにインスパイアされて「Who Wants To Live Foever?」を作ったはずのブライアンが、フレディに「ねぇねぇ今どんな気持ち?」って余命をネタにした内輪ソングを作ってたって話になりますからね…


べ:ある意味呪いですわよね彼の死も。

 

 

べ:まっ次にいきましょう。ライブはしない宣言もこの時期なんですけど、「The Miracle」発売!ここからクレジットが全てQueen名義になります。オールクイーンクレジットのアルバムらしく初っ端2曲はジャムセッション内で形成した曲らしいですが、相変わらず誰がどの作品作ったのかよく分かる感じがなんとも愛おしくて、私の1番好きなアルバムの1つです。


ミ:当時のファンはみんな何も知らずに無邪気に享受してたんですよね。キャリアを20年近く積んで新たなる黄金期を迎えたってかなりレアなケースですね。

 

べ:リリース年は1989年、日本では平成元年で世ではジャネットジャクソンの台頭なんかと時期を同じくしたみたいなんですけど、サウンドはこれでもかってほどQueenです。Queenっぽいんです、メンタル面での結託や長年の争点だったらしいクレジット問題の解決、ライブはしないという決断を下した以上、少なくともフレディの病状についてもバンド関係者内で理解を得た頃だったんだと思います。

今でもテレビで聴くわ!みたいな曲こそ入っていないものの、全キャリア中1番現在のQueenのステレオタイプっぽい音楽やってるアルバムだと思います、この頃のライブ見たかったな〜…

 

ミ:ある意味初めてバンド全員で協力して作ったアルバムですね。それと、ロジャーが迷走期のKYっぷりから一転してヒットメイカーになってるのが凄い。


べ:アルバム中ラストソングの「Was It All Worth It」がまたいいんです…!


ミ:「素晴らしきロックンロールライフ」という邦題がいい味出してます。


べ:「The Show Must Go On」がより死や幕閉じの匂いを感じさせる叫びと覚悟の曲だとしたら、そこへ向けて昇華させるための今までの「Queenそのもの」への肯定の曲で、それを踏まえた邦題もとても粋。なんだかこれまでこの企画でキャリア振り返ってきたのも報われるような…人間40歳で不惑と言いますがまさにそういう立ち位置のアルバムですね。…あかんミラクル好きやからまだまだ喋れるんですけど…


ミ:次行きましょう笑

 

 

終局。それは始まりのあとに、必ず訪れる。私たちの願いは、未来へと連なるのか。私たちの希望は、死そのものなのか。最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」…じゃなくて「シン・口の悪い若者2人がQueenを好き放題語ってみた〜第4章」。さーてこの次もサービスしちゃうわヨ。なんとなく何が言いたいかわかるくない?よかったら次もチェケラしてね❤️

アジアのヒップホップシーンがアツいぞ

最近米ビルボードチャートでアジアのアーティストとして初めて首位を獲得したBTSを筆頭にアジア産の音楽が世界を騒がせているのはもうご存知だろう。

というわけで今回は掘れば掘るほど面白いアジアのヒップホップシーンについて紹介させてもらおうと思う。

 

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まずは中国。

先日上げられたLil PumpのButterfly Doorsの歌詞の中にアジア人を侮辱する内容の歌詞が含まれていると話題になり中国のラッパーたちがdis曲を次々と上げていったのだが、それを聞いた私はレベルの高さにとにかく驚いた。

 

その中でも四川成都市を拠点にするChengdu Rap Houseというクルーの中にAnsr Jというラッパーがいるのだが、彼のdis曲がとにかくカッコイイ。

 

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ちなみに日本でも知られているHigher BrothersもこのChengdu Rap Houseから結成されたらしい。

 

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見た目からしてもかなり個性の強い中国のミーゴスとも称されるラップグループ。

彼らはニューヨークを拠点とする「88rising」というアジアのカルチャーを発信するメディアプラットフォームの中のラッパー集団だ。

この「88rising」は今アジアにとどまらずアメリカやヨーロッパでも急激に注目を集めている。

 

 インドネシア出身のRich Brianもこの「88rising」 で人気のラッパー。

 

youtu.be

 

この「Dat $tick」はシリアスな曲調とクールなラップとは裏腹にRich Brianがピンクのポロシャツをタックインしてウエストポーチ姿で登場するというギャグ感満載のMV。

 

彼は義務教育を受けずにYoutubeで英語を独学で学んだりといろいろぶっ飛んだ面白い子なので気になった方はいろんなインタビュー記事があるのでぜひ見てみてほしい。

 

 

現在の韓国のシーンはというとやはり世界で大流行中のK-POPが目立つ。

国内の市場が狭い韓国は必然的に海外に目を向ける事になるわけだが、その海外志向の戦略が見事にハマって世界で盛り上がってきたというのがこの世界進出の理由として考えられる。

韓国で外国語の音楽が解禁されてまだ20年ほどしか経っていないことを考えると恐ろしい快挙だ。

 

韓国ヒップホップシーンはというとオシャレで映え感満載なヒップホップはもちろんゴリゴリのKeith Apeのようなヒップホップもある。

 

youtu.be

 

youtu.be

 

ちなみに冒頭でもBTSについて少し触れさせていただいたが、コリアンカルチャーを世界に普及させ、注目させた彼らはあのピッチフォークでもしっかり評価されているのでアイドルだからと言って舐めてはいけない。

pitchfork.com

 

 記事でも語られているようにこのグループにはラッパーが3人もいるのだが、それぞれがソロの活動でミックステープをフリーで配信したりとかなりヒップホップカルチャーを意識しており、アイドルだけではないアーティストとしての一面もある。

 

youtu.be

 

このようにアイドルとアーティストとの線引きが無いため音楽のレベルも高く、多様性があるのがこの国の音楽シーンの面白さとも言えるだろう。

 

そしてちょっと韓国っぽいテイストのオシャレなサウンドを使ったØZIのB.O.。

 

youtu.be

 

ØZIは台湾のアーティストでありヒップホップからR&Bまで幅広い音楽の作品を手がけている。

 

こういう韓国っぽいテイストは日本のSweet William&Jinmenusagiのso gooでも使われているが、このフロウやトラックの雰囲気は最近の流行のようなものなのだと感じる。

 

youtu.be

 

 

 そしてSweet William&Jinmenusagiに引き続き日本のヒップホップクルーについても語っていきたい。

 

youtu.be

 

このイントロは聴く人が聴けばわかるだろう…そう、「タクシードライバー」のテーマである。

彼らはサンプリングのチョイスがクソハイセンスな世田谷出身の幼馴染からなるHood愛溢れるクールなシティー派集団、「KANDY TOWN」だ。

 

youtu.be

 

クルーの一員であるRyohu(大好き)のバンドセットによる最高なライブの様子。

 

youtu.be

 Ryohuが参加してるDony JointのGood Timesで使われているサンプリング曲も山下達郎の「Sparkle」のようだが実際は違うらしい。(なんだろう)

 

…といったようにアジアのヒップホップシーンについて触れてきたが、音楽がネットやストリーミング配信を通じて国境を越えボーダーレスに触れていける今、カルチャーオタクの一員としてさらにグローバルに発展していくアジアの音楽シーンに目を向けていきたいという思いでこの記事を書かせていただいた。

ヒップホップを通じてグローバル化が進む若者のカルチャーについて興味を持ってくれたら嬉しく思う。

 それではまたいつか会いましょう!

 

もちこ

 

バンドが老いるということ〜Yesの来日を見て

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本当は書くつもりはなかったーライブ後、演奏の出来に「終わった出来事」として無慈悲にも脳の片隅に追いやられたYesのライブだったが、その後新旧問わず彼らのライブ音源を聞くにつれて、沸々と湧き上がる疑念ー今のYesはただプレイヤースキルの「老い」による劣化によってあの惨状を呈しているのだろうかという疑念ーが自分に今のYesに対して思うことを記事にするよう唆すため、こうして書いている次第である。よって、これは愚痴にまみれた陰鬱な散文であり、今のYes、その他の老人バンドのライブに行く足を遠のかすネガキャンである可能性も否定できない。だが、今までのロックシーンを作り上げた先人たちのファンとしては、「まだ現役の頃の雰囲気を感じられる」だとか「腐っても鯛」だとかフォローしきれていない珍妙な文章で変に持て囃すぐらいなら、死につつある様を正視して真摯に弔いたい。いや、本心を述べると最後に不死鳥のように復活して欲しい。David Bowieのようにやってのけた実例だってある。

結局この文章は何なのかーたとえ憧れの存在が老化して見てられない域に達してしまおうとも無関心になりきれない、一抹の期待を抱いてしまうことによって行き場のない悔しさや憤りがむくむくと湧いてしまう、そんな哀れな男の独り言がこの文章の正体である。

 

昨年のKing Crimsonのライブでは緊張と期待でおかしくなりそうだったのとは打って変わり、当日会場についても全くと言っていいほど高揚感には襲われなかった。むしろ、たとえメンバーが盛大なミスをしてもYouTubeのようには会場からブラウザバックできない、そのことが不安で胸がドキドキしていた。Alan Whiteがもはや数曲しか叩けないという正式メンバーなのか分からない状況である一方、バンマスのSteve Howeは著しい見た目の老化とは裏腹に、テクニック的には近年まで何とか踏みとどまっていた。だが、そうは言ってもとうとう誤魔化しきれないぐらいの劣化が訪れ、それが完全にバンド全体のノイズになりだしたと自分が実感したのは2018年のライブー前回の来日の後である。まるでギター初心者のようにたどたどしく弾く彼の姿には愕然とした。とうとうここまで来たかと。

 

 さて、ライブが始まってからの第一印象は「思ってたよりマシだった」。当然ながらメディアで聞くライブと会場で聞くライブは別物である。音のデカさで威圧されて何となく良く聞こえるように思った上に、何よりも目立ったBilly Sherwoodの歪んだベース音。CDでは本来のベースの持ち分を遂行するだけであったのが、いざ生で聞くと自分のたかだか23年間のライブ経験の中でもずば抜けてベースの音量バランスがでかい。

一応は若手扱いにはなる彼が土台を作り、なおかつテクニカルなプレイを前面に出しているので、マシに聞こえるのは当然と言えば当然。前回の来日では亡きChrisに気持ちを引きずられていたがためにちゃんとBillyを評価出来なかったが、今回はフラットに聞くことが出来たということか。そこまで特性があるわけでも、自分の好みの音楽スタイルを取っているわけでもないが、観客が望む最大公約数的演奏をしているお陰でストレスはない。

そしてドラムも前回に引き続き、サポートメンバーのJay Schellenが殆どの曲を叩く。もはや還暦手前の彼を若手と呼ぶのはおかしいが、後述するAlan Whiteのプレイに比べると瑞々しくパワフルで、現行のYesがパッと聞いた感じはまともに聞こえる1番の要因は彼の存在だ。

リズム隊が一回り二回り若いということもあり、第一印象は問題ない。ボーカルのJon Davisonもバンドにぐっと馴染んでいて、最初の来日のような違和感はない。さて、問題は初期メンバーのSteve Howeと、ある意味犠牲者のJeff Downesだ。

 

Steve Howeは先述したようにまともに弾けていない場面がいくらもあった。スケールを速弾きする際にミスタッチがそこそこあるのは許容範囲(むしろディストーションを入れずに古希の人間がここまで弾き切ることは驚異の域である)。むしろ、テクニック的には大したことのないメインリフのリズム感覚が狂ったまま弾き続け、偶発的ポリリズムになりかけた場面の方が、バンドの演奏としては悲惨であった。

テクニックが著しく落ちたとは思えない。1人でクラシックギターを爪弾くパートでは、10本の指を駆使して依然としてテクニックの健在ぶりを披露した。まともに弾けなくなったのはあくまでもバンド演奏の場での話だ。

元々彼はリズム感覚が優れていたわけではない。キーボードのRick Wakemanと2人して、BPMなる概念のないクラシック畑の感覚を引きずり、リブムキープとは無縁の突っ走りっぷりを全盛期では披露し、今は逆に本来の速度よりももたついているのである。無論、年齢も関係しているだろうが、どうにも意識の問題であるようにして大変モヤモヤする。

 

輪をかけてバンドの調子を狂わせているのがJeff Downes。「ラジオスターの悲劇」のピアノを聞けばわかるように、別に技巧派ではない。それにも関わらず度々Yesにスカウトされて本人の力量以上のタスクを課されてしまうのには同情してしまう。と言っても、弾けないフレーズを無理矢理弾こうとして毎回トチるぐらいなら何かしらの代替案を出してほしい。別に観客は彼に目の醒めるような(あるいはテクニックのひけらかしで下品な)ソロを弾いてもらいたいわけでもないし、彼の個性も未だにYesに愛想を尽かさず追いかけているファンにはちゃんと評価されているため、大胆に変えてしまっても大して文句は出ないだろう。

 

その一方で、ゲストとして途中から登場した初代キーボーティストのTony Kayeは、テクニカルなフレーズこそないものの、腕を大きく振りかぶって荒々しくオルガンを弾き倒し、やはり初期曲は本人が弾くのが1番だという納得のパフォーマンスを披露した。

そして介護されながらヨタヨタ現れたAlan Whiteも、力に欠けた省エネドラムを叩くものの、サポートのJayと同じドラムセットでもスネアの打音だけで彼こそがYesのドラマーだ!と確信させる安定感をもたらし、何故2、3曲しか叩けないのに意固地に引退しないのかをはっきりと自分の音で表明していた。 

 

今回アルバム再現を行った3rdアルバム。Tony Kayeのシンプルなオルガンは健在で、プログレというジャンルの抱える難解さよりYesの持ち味であるメロディーの親しみやすさが前面に出たポップなアルバムだ。そして近年の再現ライブの出来がどうだったかというと...いや、リンクは貼らないでおこう。

 

ここまで読んでいただいた人には分かるだろうが、今のYesが抱えているのは「身体的老化による演奏面での困難」ではない。「精神的老化による防げるミスの看過」という、よりたちの悪い爆弾を抱えているのだ。

演奏面だけではない。「本当に素晴らしい作品が出来るという確信がなければ新作は作らない」と職人気質な発言をしつつも、「過去のアルバム再現ツアー」という集客のために金の匂いがする呼び込みを続ける姿勢(既に名作は一通り再現し終わり、再現は二巡目に突入している)は、バンドとして新鮮さを保ち続けるには不健全な状況にある。

無論、かつての栄光を売り物にして老後の活動を行うバンドはいくらでもいるので彼らだけを責めることは出来まい。だが、こうも半端に「俺たちはまだやれる」と提示されて、ライブはミスが散見してグダグダ、となると、ファンとしてはモヤモヤして仕方がない。

 

思えば、Jon Andersonの気まぐれが頂点に達して2つのYesが現状存在している時点で、レジェンド枠の中ではかなり組織運営が下手くそなバンドであることは間違いないが、その2バンドにしても、片方は全盛期と全くそのままの演奏を披露し、新譜の話も宣言してファンの期待をくすぐりながらも、Jonの気まぐれ病が爆発して「新譜?何の話?」とバンドの存続も絶望的にし、もう一方は若手で空いた穴をどんどん補填してはいるもののソロイストがヘロヘロでどうしようもないライブを続けている。

 

90年代以降、決して楽曲の出来は悪くないが、屈託なく褒めちぎることが出来ないアルバムしか出てこなかったことも、結局はバンドが健全化する瞬間がごく少なかったからだと思うし、持つものはあるのにそれを充分に発揮できずに叩かれるという流れが定着したのは悲しい限り。そもそも本当に今のYesに絶望していたら、こんな誰に向けているのかも分からない愚痴を3千字も書くわけがない。あーあ。僕はYesが好きである。

「カメラを止めるな!」のテレビ放送がすこぶる不評だった訳

「カメラを止めるな!」が地上波で放映された。

 

 

 

 

前書き

2016年の「この世界の片隅に」や「シン・ゴジラ」、そして歴史的ヒットを叩き出した「君の名は。」を思い出させる口コミからの大ヒットで、ミニシアターでの上映からシネコンの巨大スクリーンに移行し、あのドン引きの低予算映画「ONE CUT OF THE DEAD」のどうしようもない寸劇を観客に浴びせるという異例の事態になったこの映画。

もちろん劇場上映当時から100人中100人が絶賛していたわけではないし、今回も「劇場で見てなかったけど面白かった!!」と言っている人はいた。

だが、地上波放送を経た今、Twitterで2019/03/10 20:45現在「カメラを止めるな 面白い」「カメラを止めるな おもしろい」で検索候補が合計120件なのに対して、「カメラを止めるな 面白くない」だと単独で730件が候補として提示されてしまう。

無論、検索ワード次第で異なる結果が出てくることはあるだろうし、ネガティブな検索候補の方には、面白くないと言っている人にある種の啓蒙活動を行っている熱心なファンのツイートが紛れていることもありうる。それにしてもここまで差をつけて「面白くない」という意見が溢れかえってしまうの何でなのか。

それに対して自分の仮説を表明していこうと思う。

 

言い忘れていましたが、ネタバレ、余裕であります。

(こんな記事をわざわざ読む人がネタバレを嫌がっているとも思えないですが...)

 

そもそも見る層が...

これは後の結論に吸収される要素であるが、そもそも地上波で初めて見るという人は「劇場まで行こうとは思わなかった」「そもそもあんまり映画見る習慣はないけど話題だから見る」ぐらいの心構えであり、毎秒出演者の一挙一投足に注目してテレビにかぶりつき、なんてことはまぁ、ない。「酒の肴に」、「何か作業のお供に」ぐらいの軽い気持ちで見るのに関わらず、冒頭からいきなりぶりっ子女子がゾンビと化した彼氏に「やめて〜!」と恐るべき大根演技で抵抗し、その一連の流れが劇中劇の世界であることを即座に示すため、演技の下手さを怒涛の勢いで罵倒する監督が登場し、正直面食らうことは間違いない。

自分もあまり興味のないジャンルに気まぐれで手を伸ばしていきなりこんなことをされたらまず心が砕ける。気まぐれで地元の常連しかいなさそうな居酒屋に行ったら、「ボンジュール」と言わなかったがために全客から白い眼を向けられる、なんてことがあったら二度とその店にはいかないだろう。

開始10分でチャンネルを変えた人、その人は正常な判断が出来る人だ。

 

40分耐えたが...

「ちゃんと見たがつまらん」「で、何が面白かったの?」このような意見も散見される。無事地獄の前半を潜り抜けて、ハマった人からしたら「本編」である、劇中劇の舞台裏、という体のもう一つの「劇中劇」、これも面白いとは思えなかった人々だ。この人たちもある意味、正しい。

この映画のあらすじを文字に起こすと「ワンカットかつ生中継で撮ったゾンビ映画が、実は様々なトラブルと偶然が積み重なって出来たヒヤヒヤする産物であった」という、楽屋落ちを人口に膾炙しただけと言えばそれまでの、とても斬新かというとそうでもない内容である。強いて言うと、「「ゾンビ映画を撮ろうとしていたら本当のゾンビが出てパニックに陥る」という映画を撮っている人たちの舞台裏」というメタが二層になっている複層構造になっている点にやや斬新さがあるが、意地悪な見方をすると、今までも用いられてきたメタ手法を二重にしただけで、画期的作品というわけでもない。じゃあ何故受けたのだろう。

 

「カメラを止めるな!」は「劇場型劇場」映画だ!

「劇場型犯罪」という言葉がある。犯人の手によって、まるで劇場の演目のようにドラマチックに仕立て上げられた犯罪のことだ。凝った声明文を出したり、ゲーム感覚で対象者に選択を迫ったり...劇場の変種とも言える映画でもこの手の犯罪は取り上げられ続けてきた。クリストファーノーラン監督の「ダークナイト」で登場したジョーカーの、言葉を失うレベルの残虐性に背筋を寒くした映画ファンも少なくないはずだ。

じゃあ「劇場型劇場」とは何なのか。自分の造語なので誰も知らないのは当然だ。というか、この映画ぐらいにしか適用できない(笑)。

「劇場型劇場」とは、共犯者たちの手によって、まるで劇場の演目のようにドラマチックに仕立て上げられた劇場の作品のことだ。これで「カメラを止めるな!」は劇場でバカ売れしたし、逆に地上波では酷評された。

 

...?どういうこと?

「共犯者」の定義は全体を順序立てて話すために後回しにするとして、「劇場の演目のようにドラマチックな劇場の作品」をもう少し分かりやすく説明しよう。

知られるように「カメラを止めるな!」は低予算映画であり、スペクタルやCGなどとは無縁である。そんな状況で「ゾンビ映画を作る!」と宣言したところで、グロテスクな見た目のリアルなゾンビが大挙して押し寄せる絵を想像する人間など当然いない。むしろ、「もっと普通に人間関係を描いたドラマを描いたら良いのに...」なんてネガティブな印象のまま見てしまう人も多いだろう。この時点で、この映画には「いかにもなフィクション」は予想されていない。要するに観客に本作品が「劇場型」であることは期待されていないのだ。

そんなマイナスのスタートで、冒頭「俺の映画を台無しにするつもりか!!」と映画内のメタ構造の上位者が暴れ狂うシーンを見て、「なるほど、まぁ考えたなぁ」と大体の人間は一応は心を許す。つまり、制作側の「自分たちの立場を分かってますよ、低予算で真面目にゾンビ映画を作っても面白くならないですよね」アピールで、頑なになっていた観客の心をまずは溶かすのである。そして、低予算故に予算もキャストも微妙な状態である現実を逆手に取り、「大根演技だったヒロインがカメラから外れた瞬間に自然なリアクションを行う」などと更にメタなネタを投下してしまうことで笑い話にする。舞台上に金を使えないなら、徹底的に劇場の設備を整えてしまえば良いのだ(そりゃ現実だと設備投資の方が高いかもしれないが)。その上で、「ゾンビ映画を撮っていたら本当のゾンビが出ちゃった!!」という新たなメタ構図を投入することで一捻り二捻りした物語になり、ある程度作品を受容するモードになった観客は「うーむ」と唸るのである。てっきり劇場の座席やフードに拘る映画だと思っていたら、ちゃんと演目にも拘るのね、と。

 

とはいえ、一度人々の歓声は止む。いくら頑張っていても、どことなくぎこちない。冒頭で早くも監督が不在になった後、残された3人によって交わされる会話のテンポの悪いこと!そして、録音スタッフは伏線もなくいきなり激昂して建物を飛び出すし、挙句には酔拳を披露するゾンビだっている。「本当は駄作だったのではないか」そんな悪夢のような時間を過ごした上で最後にデカデカと出る「ONE CUT OF THE DEAD」の字。ここで今まで悶々としていた客は自分たちが「劇的な展開を期待されていなかった劇が劇中劇の劇中劇であり、その劇的などんでん返しによって作品の全てがドラマチックな劇に一変する」というトリックにしてやられる。 

 

何故「劇場型犯罪」という言葉があるのか。それは「犯罪の殆どはドラマチックなものではない」という共通認識に基づいている。じゃあ「ドラマ」とは何なのか。これは定義が難しいが、「現実の人間と行動規範を一にしながらも行動がデフォルメ化された架空の人物が、その行動規範に基づいて行動するフィクション」としたら、ある程度納得してもらえるのではないか。

現実でものすごい勢いで振り返って二度見をする人間は中々いない。もちろん、二度見自体は現実に生きる多くの人間がする行為で、行動のためのルールは現実と虚構と共通だが、ドラマの人間はそのルールから生み出される結果が少々大げさである。そうなると、複数人が交流していくうちに現実以上の衝突や調和、あるいは愛情が生まれ、物語が動く。

 

「カメラを止めるな!」内の「ONE CUT OF THE DEAD」 に出てくる人物は行動規範が非常に歪だ。後半パートでその違和感は全て清算されるのだが、前半の時点で観客は「あれ、こいつらって行動規範すら現実の人間と違うのでは?」という不安に駆られ、どうしようもない居心地の悪さに襲われる。そこで10分切りの人が続出したのではないか。

しかし、いざ最初のEDが終わると、劇中劇の怒涛のネタバラシが始まる。やれ、会話がぎこちなかったのは完全アドリブだったからだの、激昂した録音スタッフは下痢だっただの、酔拳ゾンビは本当に酔拳だっただの。ここで作品は「デフォルメされた人間だけが存在する世界」に移行し、観客に「ドラマチックではない」ことが自明とされた「ONE CUT OF THE DEAD」から、ドラマチックな「カメラを止めるな!」に移行するのだ。

 

さて、ここで評価が真っ二つに分かれてしまった原因がある。

「劇場型劇場」は比喩的なフレーズであるとともに、直接的な描写でもあることにその答えが含まれている。

「ONE CUT OF THE DEAD」というタイトルコールが前半のクライマックスになっているわけだが、ここでずっこけられるのは、「本物の劇場」=「映画通ばかりが集まるミニシアター」の観客であって、テレビという「仮想の劇場」で本作を見た、「ホラー怖いから1作も見たことない」という観客には「はてな」だろう。

もちろん、ホラー映画好きには言うまでもなく、このタイトルは1978年の映画「ゾンビ」の原題「DAWN OF THE DEAD」のパロディーなのだが、それだけでなく、「SHAUN OF THE DEAD」や「インド・オブ・ザ・デッド(原題は異なる)」など、洋邦問わずゾンビもののコメディーに使い回されてきた構文でもある。そのパロディーのパロディーという構造をつかんだ上で、「B級ホラーの定番である手ブレするカメラワーク」×「通好みの映画あるあるのワンカットという手法」という更なるオタク知識を知っていないと、「爆笑」とはならない。

つまり、しっかり「劇場」に通う層でないと、その「劇場型」たる構成は分かりにくくなっている

ここで先ほど割愛した「共犯者」という言葉が絡んでくる。この作品が真価を発揮するのは、「監督」と「観客」、この両者がしっかりとタッグを組んで、面白いと思えるポイントを逐一拾い上げていく作業が必要なのだ。二者による共犯行為。これが上映当初の大絶賛の理由でもあろう。オタクとクリエイターの蜜月状態にあったがため、あそこまで拡散されたのだ。

やがてその評判は少しずつ映画に疎い層にも広がり、地上波で放送されるに至った。そこでブーイングの嵐が吹き荒れたのも、さもありなん。この記事の冒頭で示した、見る層が映画にそこまで熱心でないからウケが悪かったというのはそういうことなのだ。

 

つまりは...

 

謂わば本作は究極の内輪映画である

一応普通に見ても楽しむことはできるが、B級映画、自主制作映画など様々な出来の映画をくぐり抜けた上で見ることで、真価を発揮する映画であることは否定できない。

 

Netflixなど、映画館に通わずとも映画をいくらでも漁ることが可能な時代にこのような「分かる人には分かる」ネタをガンガンぶち込む映画はリスキーかもしれない。だが考えてほしい。

制作費300万の映画を映画に疎い層までが見るなんて誰が予想できただろうか?

趣味や文化が多様化していく中で、社会の全員に合わせた作品を作るよりも、ニッチであっても1つの完結したコミュニティー全体を震わせる作品を作る方がより妥当であろう。

そういう点では、「カメラを止めるな!」がテレビで放送されて評判が悪いのは必然であるし、むしろそのことは「カメラを止めるな!」が制作上観客に不実な態度を取っていたということを微塵も意味しないと言っていいだろう。

 

本来はごく小さい界隈で盛り上がって終わるだったはずの作品がSNSなどの評判で世間に引っ張り出されて賛否両論を生み出す。

名もなき人々の声が業界を動かした事例として、今後の起こりうるだろう珍事のパイオニアとして、本作が評価される日が来るかもしれない。

 

 

あぁ、また見たくなってきたなぁ...