Beady Eye の『BE』が好きだ。
最近、恋もしていないのに感受性が豊かです。たくさん文化に触れ、忘れていた好みを思い出したり、新しい好みに出会ったりしております。非常にグッデイ♪です。
あとはスッと夜に眠ることさえできたら完璧なのですが、そうそう上手くいかないもので、仕方がないので夜には好きなものについて書いています。この間までサボって何にも書いてなかったのが嘘のよう、遅れ分も取り戻せそうです。今日も、来日した(一瞬出国してまたすぐ戻ってくる)人のことを書きます。何事もきっかけですね。
【余談】この時代におけるオアシス情勢、緊迫した現状
※この章に書かれていることは現状を誇張して歪めたフィクションである。実在する団体、人物に対する発言も冗談であり、一切事実に基づかない。ふざけて書いているので遊んでる暇はねェんだという方は正直読み飛ばしてもらって良い。
90年代にイギリスの二大勢力を中心に勃発した抗争を、身をもって体験した世代ではない。だが、もし自分があの頃の英国にタイムスリップしたら、悪の組織に拘留されこめかみにサッカーボールを押し付けられながら「Oasis or Blur?」と尋ねられたら、そういうことを想像したことがないわけではない。オアシス派か、ブラー派か、きっと僕は家族や友の命がその質問の返答にかかっているような場合でも、胸を張って「ブラー」と呟くだろう。
悪党は黙って僕を解放するかもしれない、あるいはサッカーボールで僕を殴り殺すかもしれない。きっと殺された日には奴らは死体に水色のサッカーユニフォームを着せ、見せしめとして街角に吊るすのだろう。
杞憂か。今は2018年、抗争は鎮火しオアシスファンもブラーファンも仲良く音楽を聴きながら平和に暮らしている。ブリットポップ抗争は遠い昔の夢、年長者が懐かしげにその思い出を僕の世代に語るくらいのものだ。オアシスファンとブラーファンの間にほとんど溝はなくなった。
だが、一見平和に見えるこの世界にも、血の流されている場所がある。オアシスという宗派は創始者間での仲違いにより二つのグループに分離してしまった。ノエルギャラガー、リアムギャラガー二人の主要核を中心に再び対立の世界が訪れようとしている。血の繋がった兄弟であるノエル、リアムは、オアシスの中でそれぞれ異なる方面に優れた手腕を発揮していた。ノエルギャラガーは口を、リアムギャラガーは口を巧みに使って人々を心酔させ世界を平和へと導こうとしていたのだ。それが今では分裂し、二組の濃い太眉のように睨み合っているではないか。
オアシス/ブラーという構図が存在しない今、ノエル/リアムという二つの巨大勢力の狭間で、筆者の僕がどちらの側に身を置いているか。もちろん本記事のタイトルからも想像が出来るよう僕はリアムギャラガーの信者なのである。もちろん、僕だって争いごとなど望まない。だから表立って波風を立てるようなことは言わない。そして、当然兄弟がまた力を合わせて世界に調和をもたらそうとするならば、喜んでノエルギャラガーを受け入れるだろう。だが復縁までは、あるいは未来永劫に復縁が望めないならば、僕は身を潜めリアムギャラガーが世界を手中に収めるのを待とうと思う。
ここで一人の「隠れリアムたん」として、リアムギャラガーの魅力を、元オアシス派に属した人間以外にも知ってもらうことができれば、素晴らしい文化の再評価、継承に力添えできるかもしれないと思い今回は筆を取った。
ブラー派だと前述したものの、当のオアシス/ブラー抗争を実際に経験した人間ではないということからも想像できるよう、僕はスタンスとしてブラー派寄りの顔をしているだけでオアシスも好きだし、なんならオアシスの方がファン歴が長い。
ちなみにオアシスで好きな曲
ここで、挨拶がわりにオアシスの曲で最も好きなものを紹介しよう。
『Who Feels Love?』は僕が初めて好きになったオアシスの曲であり、今でも最も好きな曲である。圧倒的に好きだ。表立ってオアシス好きを公言しない理由として、この曲ならびにこの曲の収録しているアルバムが群を抜いて好きだと話すと首をかしげられるからというのがある。この曲が最も素晴らしい、異論は認めるが否定は認めない。
【本題】Beady Eyeの『BE』
ノエルギャラガーのソロと、Beady Eyeを比べると、これまで僕の周りでは圧倒的にノエルギャラガーのファンが多かった。売れ行きも同じくノエル優勢だった。
しかし、今回リアム自身のソロアルバムが出て、多方面からリアム側へポジティブな評価が増えている。伝説のバンドBeady Eye、再評価を狙うに絶好の機会だ。今回は評価低めな印象があるBeady Eyeのセカンドアルバム『BE』の魅力を語りたい。アルバム毎に比べるとやっぱり僕は1stの『Different Gear, Still Speeding』より『BE』推しだ。
『Soul Love』は今でもリアムのソロツアーでセットリストに入っている曲だ。この曲が今も歌われている理由としては、三人の書き手がいたBeady Eye の中でもこの曲がリアムによって作曲されたものであるということが大きいのではないだろうか。『BE』の中でも一際目立つ名曲である。しかし、リアムギャラガーの作曲者としての魅力に関してはまた別の機会に語らせて頂きたい。
今回のテーマは『BE』というアルバムだ。アルバムを初めて聴いた時の印象は、声が近いというものだった。繰り返し聴くにつれて、この『BE』というアルバムがリアムギャラガーの声を堪能する為の完璧な装置であるということに僕は確信した。
「音楽というものはそもそも曲の素晴らしさありき、ボーカルは要素の一つに過ぎない」というのが僕の考え方だったが、『BE』はその概念を覆してくれた。レディオヘッドとかでもトムヨークの声が凄くなくてはなり立たないじゃないか、そんなの当たり前のことじゃないかと言われそうだが、『BE』におけるリアムのボーカルとトムヨークのボーカルには重要度に大きな差があるように思える。
決して、トムヨークよりリアムギャラガーが優れていると言うわけではなく、円グラフに「良さ」を担うものパーセンテージの比重を示した時、レディオヘッドだと曲の良さだとか演奏の良さだとかもトムヨークの声と同じくらい大事だと表わされるのに対して、『BE』の場合だと八割リアムギャラガ^ー^の声の良さが占めているということである。個人的にオアシスではリアムの歌声:ノエルの作曲が半分ずつを支えていたという印象。
となると、『BE』において曲の良さとか、演奏の良さが劣っていると言うことか?と言われてしまいそうだが、そういうわけでもない。上の動画は、言わずと知れたスタンダードナンバー『Blue Moon』から、Beady Eye の1stアルバム『Defferent Gear, Still Speeding』収録曲『The Beat Goes On』を続けて演奏しているものになるのだが、Beady Eye の作る曲や彼らの演奏が、劣っているどころかなかなか素晴らしい水準にあることが、これを聴けば明らかだろう。ちなみに『The Beat Goes On』はBeady Eye の曲の中で僕が一番好きなもので、作曲はアンディベル。気づけばRIDEの人という印象がすっかり復活しているアンディベルはBeady Eye でも夢々な名曲を多く残している。
『Defferent Gear, Still Speeding』の時点で既によろしい水準にあったBeady Eyeの音楽だが、『BE』では方向がガラリと転換されリアムギャラガーの声が最も映えるような色となっている。具体的に言うと、ボーカルを際立たせる為の空間、余白のようなものを存在させながら同時に、リアムのボーカルと並ぶに相応しいような「心地良さ」が奏でられている。(説明しずらいけど)
Beady Eye が1stから2ndにかけて、オアシスの続編として戦おうとする音楽から、リアムギャラガーを最大限に魅せる音楽に変化したというか、説明しずらいけど。それが意図して行われた転換だったのかどうかはさておき、「リアムの声の煌めきがどの角度から見たときに最も美しいのか」を念頭に聴くなら、『BE』というアルバムより美しい作品は存在しないとだろう。
少しキツい言い方をすると僕にとって『Different Gear, Still Speeding』は「新しい一面も見られるからファンにとっては割と嬉しいし、ゲムとアンディの作曲が表に出てきてワクワクする、けど結局どうしてもオアシスと比べちゃうし、オアシスのキャリアも総括して見れば別にベストではない」アルバムだったのだが、『BE』でBeady Eye は唯一無二のバンドになった。Beady Eye にOasisの代わりができなかったが、同時にOasisが再結成したとしてもBeady Eye の良さを上塗りすることはできないだろう。
ゲム・アーチャー、アンディ・ベル、リアム・ギャラガーと言う三人の作曲家たちの個性が混ざり合いオアシスとは確かに別の、一つのバンドとしてBeady Eyeを確立させたのも間違いなく『BE』である。
なんと言うか、元々あったような、決してこんなテイストの曲が存在したことはなかったのにリアムは元々このバンドで歌っていたかのようにすら聴こえる(!?)。リアムギャラガーの声を前提に曲ができていると錯覚して聴こえる(!?)。こんな曲は、オアシスの頃の曲にはなかった。オアシスでもリアムの声は素晴らしかったが、オアシスを聴きながら素晴らしい彼のボーカルを当たり前のものとして僕は受け取ってしまっていたかもしれない。当たり前のことを言うけれど、リアムギャラガーの声はマジで特別だ。
【余談】ちょっとアンディベルの話いいスカ
以前、なんか急にRIDEオォォォォオとなって泣きながら記事を書いたことがあった。音楽を紹介すると言いながら自分の思い出を「エモいエモい」と(頭では思いながら別の言葉に置き換えて)語ることが多いが、RIDEに出会うきっかけとなったバンドBeady Eye をこうやってじっくり聴き直すとたくさん感じるものがある(エモい)。
今となってはBeady Eyeよりもライドばかり聴いているマンと化している。ライドにどハマった状態で聴くBeady Eye は、高校生の頃ライドを全く知らないでオアシスの延長として聴いていたBeady Eye とはまた異なる良さがある。当時Beady Eye を聴いて『BE』がオアシス、ノエルギャラガーと全く違うということだけはハッキリわかっていた。違うとはわかってはいたものの、どの曲を誰が書いたかを聴いてもリアム作曲のもの以外特に何も思わずBeady Eye じゃんと思うのみだった。アンディベルが誰だか知らないのだからまあそうなるだろう。
今、アンディベルという人を知ったうえでアンディの書いた曲を聴くと、あぁアンディだ!ってなる。RIDEとは違う面のアンディベルを楽しむことができる瞬間があれば、『ウェザーダイアリーズ』にとってのローグワン的味わいを感じる瞬間もある。主演はリアムギャラガーである。全く異なる視点だが、そう聴くとすごい、なんか豪華なあれだし、ヤバい。めちゃくちゃ「ア〜〜」ってなるし「イヤッ、イヤッ、イヤイヤ、ヤバイッテ、マ〜ジ~デヤバイッテ」くらいのコメントしか出なくなったりもする。なので一応Spotifyでアンディ作曲分のBeady Eyeをまとめてプレイリストにしておきますね。
by merah aka 鈴木レイヤ
『The Killers 日本にまた来てもらおう』回
東京公演めっちゃ最高だったようで、僕は見てもないのに、余韻に浸っております。
The Killers 大阪公演へ行く予定だったみなさん、誠に御愁傷様です。また、台風やら地震やら度重なる災害の被害を受けた皆さん、いち早く普段の生活を取り戻せるように祈っております。
この文章はThe Killers がいかに素晴らしいバンドかを再び認識していただき、愛を深めることで次の来日に繋げていこうというコンセプトの中で書かれました。
ドタキャン芸人を許そう、愛そう
大阪公演中止を嘆く声が当然多く見られる。The Killers、またか、またキャンセルか、と思った方も多いだろう。しかし、もちろん今回に限らず、度重なるキャンセルや延期は彼らの怠慢によるものではない。
納得が行かない方も、The Killers に対して信用が無くなってしまったと言う方も、やはり多いと思う。すぐにとは言わないが、ゆっくりでも、悪い印象を拭っていってもらいたいので、まず今までの公演中止、日程変更の経緯をここに並べてみようと思う。僕が代わりに言い訳します。
2009年のフジロックは、The Killers にとって最初の来日キャンセルである。一ヶ月ほど前に詳細な理由は発表されずに出演キャンセルがアナウンスされた。調べるとフジロックでの出演予定だった日の四日後に次男が誕生している。公にキャンセルの理由は明らかになっていないが、ブランドンが妻の出産に立ち会うと言うのが理由だったのだろう。
二度目のキャンセルは2010年2月だ。上の記事にもあるよう闘病中だったブランドンの母親の余命が宣告された為、止むを得ず公演はキャンセルされ、ブランドンは母との最期の時間を過ごした。
三度目の事件は前回の来日で起こった。体調不良、それが原因で来日こそしたものの一日目の公演が延期になってしまった。致し方ないとはいえ、一部のファンにとって振替えられた日程がストライプスの来日公演と被っているなんていうこともあって。まあ当然、ついにThe Killersはドタキャン芸人として、あのクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジと肩を並べたのだ。
そして今回、誰もが心の隅で恐れていたことが起こった。四度目の公演中止のアナウンスである。13日に予定されていた大阪公演は台風の影響で関空がダウンしているという止むを得ない理由から見送られてしまった。非常に残念なことである。
ここまで合計四回、そう聞くとどうにも日本に来る気がないやる気がないバンドだという印象が強くなってしまうのも仕方がない。しかし、こうして公演キャンセル、延期の詳細を見ると、いずれも仕方がないことだったとわかるはずだ。(確かに2013年の体調不良で延期というのは、まあ多少本人たちやマネージャーらが悪いとも言えるのだが、しっかり振替て特別なパフォーマンスを見せてくれたではないか。)
The Killersの気持ちになって考えて見て欲しい。もし、自分が世界中の人気者だった時、あなたなら「他の地域に比べると大してファンが多くない国、しかも行こうとするとしょっちゅう良くないことが起こったり、ステージに立つのを阻む何かがあるような場所」へまた来ようと思うだろうか?
僕なら、絶対に行かない。どう考えてもツイていない、いや大して考えなくても縁がないところだとわかるからだ。
でも、The Killers は何度でも、何度でも、来日に挑戦してくれている。
そして、
「君には僕の心が読めるかい?」
と何度も歌ってくれる。
いくらなんでも、ここまで印象が悪くなってしまうことはなかなかない、正直トラウマになるだと思う。でも懲りずにThe Killers は来ようとしてくれる。これは僕の推測だけれど、どんなに壁が立ちはだかっていても、それを乗り越えて来日に挑戦させるほどの日本愛がThe Killers にはあるのだと思う。そうでないと『本人談もっともお気に入りの曲』のミュージックビデオを日本で撮るわけがない。
コ〜なんとかと違ってスタジアム級のバンドになっても愛される理由、等身大のヒーロー
The Killers の魅力は単なる親日バンド(主観)というところにとどまらない。彼らはキャリアを重ね、非常に大きなバンドになった今もかなり僕たち近いところ(物理的な話ではなく、精神的な距離)で音楽を奏で続けてくれる。まさに、真のグラマラスインディロックンロールなのだ。
ここからは、そんなThe Killers の素敵なところをたくさん紹介して行こうと思う。
名前の由来
恐ろしげなバンド名とは裏腹に、ポップで勇気の出る曲が多い!という印象が強いThe Killers だが、別のバンドから名前をパクっているから殺し屋感が薄いのかもしれない。そのバンドは以下の動画に登場する。
実はキラーズというバンド名はニューオーダーのクリスタルのMVに登場する架空のバンドから拝借されている。ちなみに、2004年の1stアルバムからの先行シングル『Somebody Told Me』のMVには若干ニューオーダーのクリスタルのオマージュ感がある。
ニューオーダー、ジョイディヴィジョンがめっちゃ好きなので信用できる
要するにThe Killersという名前はニューオーダーに対するリスペクトである。ニューオーダーの新譜にゲスト参加したり、2006年にレコーディングされたJoy Divisionのカバーが今尚ライブセットリストの一軍に登録されているということも納得できる。ちなみにThe KillersによるJoy Divisionカバー音源は、ニューオーダーが自ら音楽を監修したイアン・カーティスの伝記映画『Control』の為にレコーディングされたもので、映画のエンドクレジットに使用された。
意味を知ると怖い、『Jenny was a Friend of Mine』のジェニーは殺されている
ということで、バンド名に怖い意味がないという事はハッキリしたと思う。知る人ぞ知るトリヴィア、別に怖い意味でキラーズとバンド名を付けたわけじゃないのに『Murder Trilogy(殺人三部作)』と呼ばれるジェニファーという女性にまつわる恐ろしい物語を持った三つの曲がある。
実は、1stアルバムに収録されている『Jenny was a Friend of Mine』、アルバムの一曲目を飾る超名曲なのだが、これが殺人三部作では最終章にあたる。この曲の時点で既にジェニーは殺されている。ライブでShe couldn't scream while I held her close の部分がShe couldn’t scream while I held her throatと置き換えて歌われることがあるということからも明らかである。この曲が最終章という事は、パート1、パート2はどの曲なのかという疑問が当然浮上するだろう。
第1章は未発表音源B面曲を収録したコンピ『Sawdust』の4曲目『Leave the Bourbon on the Shelf』である。この曲は2002年に録音された音源だ。そして第二章が1stアルバム『Hot Fuss』の10曲目『Midnight Show』だ。この三作品ではブランドンの声の主人公が嫉妬に狂い、浮気をして彼の元を去った恋人を殺してしまうという、とても悲しいストーリーが描かれている。
『Leave the Bourbon on the Shelf』で恋人であるジェニファーは他の男のところへ去って行き、主人公は悲しみに暮れもう一度チャンスが欲しいと嘆く。『Midnight Show』では人のいない場所で主人公が再びジェニファーに会う場面が歌われている。主人公は「僕たちはいいカップルだったのに」と嘆くも、結局うまくいかずジェニファーを星空の下、首を絞めて殺してしまう。『Jenny was a Friend of Mine』は主人公が警察に尋問されているているシーンとなっている。「ジェニーは僕の友達だった、どこに犯行の動機があるんだ」と主人公は繰り返す。
いや、なんだかんだ言ってマジでキラーズ。
曲調明るいけど、初期の曲マジでメンヘラっぽい歌詞、多い
皆でシンガロングしてライブで一番盛り上がる曲『Mr. Brightside(ミスター明るい側)』、僕はカラオケで絶対に歌うし、熱唱するの気持ちよすぎ曲である。明るい曲名だし、楽しい曲だけれど、あれも歌詞は違う男に気になっている女の子を持ってかれて「嫉妬が聖者を海に変える」と言ったような内容だ。失恋はいつもヤケクソ!なかなか人生うまくいかない、その通りだと思う。僕にとって(多分みんなにとって)、ブランドン・フラワーズはイケメン高身長であるにも関わらず親近感が湧く珍しい例だ。
エモいことしやがる
実は『Mr. Brightside(ミスター明るい側)』の物語はここで終わらない。2012年のアルバムである『Battle Born』に収録された一曲『Miss Atomic Bomb』だが、どこかMr Brightsideにイントロが似ていると思えば、なんと続編である。
8年越しに明かされた「ミスター明るい側」氏の恋した相手の名前はなんと「ミス原爆」。ビデオも『Mr. Brightside』の続編になっている。あの金髪の美女とキザなイケオジが登場し、ブランドン演じる主人公はまた横取りされる。
上のビデオで3分20秒あたり、アルバム版で3分30秒あたりから聴いてみれば、マジに『Mr. Brightside』のメインリフが流れる。また、歌詞も『Mr. Brightside』を当然意識したものになっていて
Open up my eager eyes cause I’m Mr. Brightside
という良い『Mr. Brightside』のアツい一節にあるアツい瞳が
I was new in town, the boy with the eager eyes
と『Miss Atomic Bomb』の歌詞でも冒頭で言及されるなど、長年のファンにはなかなかアツい仕様になっている。(ちなみにバトルボーン発売当時、キラーズを聴き始めたばかりだった僕はクソほど怖いジェニーの歌詞も知らずに「新譜じじくせえな、やっぱホットファスっしょ」と思っていた)
Wonderful Wonderfulは今までと一味違う
昨年出た新しいアルバム『Wonderful Wonderful』は今までのアルバムと一味違う。先行シングルの『The Man』のアートワークが出た時に2ndの『Sam's Town』っぽいなと思った人は非常に鋭い。やはりジャケがアントン・コービンであるのは単なる偶然ではない。実はこのアルバムは2016年の『Sam's Town』発売10周年記念のコンサートの後にまた『Sam's Town』の様なアルバム、単なる曲の詰め合わせではないレコードを作ろうと感じて構想を固めたものらしい。三人の女性ボーカルを招いてのステージパフォーマンスもそのコンセプチュアルであろうとする意思からきたものなのかもしれない。
めちゃ優しい
日本ではドタキャン芸人として名を馳せているThe Killers だが、それは本当に運が悪いだけで、ライブに言った人らはご存知のようにめちゃくちゃ良い人たちだ。(知らんけど)
今年三月、リアムギャラガーがロラパルーザ(チリ)で途中で声が潰れステージを降りるというハプニングがあったが、その後にThe Killers が登場し、リアムのファンを思いオアシスの曲を何曲かプレイした、というめちゃくちゃ心温まるエピソードがある。すると、その一週間後のロラパルーザ(ブラジル)で、The Killers のステージにリアムギャラガーが急にやって来てハグ、世界が感激というこの二組の絡み、いや感激、めでたし。
と思っていたら七月にはイギリスで、またThe Killersのステージにリアムがやって来てこのあいだのお礼なんかの挨拶した後引っ込んで、今度はThe Killers がオアシスのAcquiesceをカバーするのを袖で観戦したそうだ。意外な組み合わせだが仲良しになったのかもしれない。
今週末は、シンガポールのフェス(?)で同じ日にThe Killers とリアムギャラガーが登場する様だ。今回もリアムの直後にThe Killers が登場するというタイムテーブルになっている。ひょっとすれば、今度こそデュエットする?
お気に入りの曲
最後にThe Killersのお気に入りの曲を三つ紹介しよう。
All These Things That I've Done
好きな理由:どエモい
The World We Live In
好きな理由:めちゃカッコいい
Bless your body, bless your soul
Pray for peace and self-control
Underneath the waterfall
Baby we're still in this
Sam's Town → Enterlude → When You Were Young → Bling → For Reasons Unknown → Read My Mind
好きな理由:いずれゆくゆくは『Sam's Town』を顔に貼ってA面をみんなに見える方向に向け、B面を匂って生活したい、将来の自分の顔の代わりになると思うとやっぱりSam's TownのA面が一番好き。結婚してくれ。10周年ライブの音源出してや。
by merah aka 鈴木レイヤ
ついに姿を見せた現代シューゲイザーの頂上、KRAUS
夏ももうすぐ終わりですね。フジロックもサマソニも終わり、何となくハリのない日々をお過ごしの方も多いのでは。
クーラーの空気ばっかり吸って、本当のクールが何かわかんなくなっちゃってる人は、是非この曲を聴いてみてほしい。スッと身体が醒めるはず。
これは2018年の新譜で僕が今のところ一番気に入っているマジで一番聞いて欲しいアルバム、
Kraus の『Path』からの一曲。(配色は悪いブログの書き方の見本を示しているわけではない。魂のゴリ押しの表れだ。)
巨大な白いカーテン、あるいは大きな滝のような轟音の向こうに聞こえるノイズ。脳に音として響く歌声、パワフルなドラム、圧倒的に最高なシューゲイズではないですか?醒める音。こんな美しい音楽、久しぶりに出会ったよと、聴いてはその都度言葉を失ってしまう。
ちょうどマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの来日公演もだんだんと過去になりつつあるこの時期に、もちろん彼らの音を超えるものと言うわけではないのだが、2018年にリリースされた最も素晴らしいシューゲイザーとして僕は是非ともKrausをオススメしたい。
こんなに素敵なシューゲイザー、それこそマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの3rdアルバム『m b v』以来だと僕は思う。こんなにヤバイ奴を皆さんに紹介しないわけにはいかない。
最近のシューゲイズ再ブームとは一際色が違うこのシューゲイザー、実はバンドじゃない。ウィル・クラウスという一人の若者のソロプロジェクトだ。パッと聴いただけではわからないと思う。ラップトップとかギターを使って寝室でごそごそ作られる類の音楽が、この方向性で素晴らしさを発揮することは多くないと思っていたから、僕もこのシューゲイズが一人の青年によって織りなされていると知った時衝撃を受けた。
今作の『Path』をSpotifyのリリースレーダーに勧められて聴くまでクラウスの名前すら聴いたこともなかったが、このアルバム実はボーナストラック付きで日本盤まで出ているらしい。『Path』はクラウスの二枚目のアルバムになる。2年前にリリースされたファーストアルバム『End Tomorrow』が耳の良い人の目にとまり、去年の時点でもうPitchforkで特集が組まれていたよう。前作は『Path』の数倍ローファイだ。ノイズと言って世の中が思い浮かべる音の中に細い呻き声が溺れていて、ただドラムだけは楽しいというような感じ。相変わらず気持ち良いのだが、これを毎日聴いていたら耳をダメにしてしまっていただろうし、『Path』のリリースを機にクラウスに出会えたのは幸運だった。
Krausの音楽はドラマチックな強弱のコントラストに頼らない、ほとんど強、基本的にずっと轟音、しかしどこか静けさというか寂しさのようなものを感じ美しい、そういう良さを持つ音楽だ。その辺もやはりマイ・ブラッディ・ヴァレンタインと繋がるのではないだろうか。モグワイやスロウダイヴとは違い、展開の張り具合の差、静と動のコントラストにはほとんど頼らずに聴者を非日常へいざなう。一気にL.C.L.に浸すような迫力と安心感、包み込むような素晴らしさだ。こんなことができるシューゲイザーはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインを除いて滅多にない。二十そこらのお兄ちゃんのソロプロジェクトにどうしてそんなことが可能なのか、これからが楽しみで楽しみで仕方ない。
シューゲイズムーブメント当時のライブ音源とか映像に触れるたび、僕はいつも「ドラマーの人、走り気味になってまで無理してギターの音に張り合おうとしてない?ドラムなんか別にメインじゃないんだから聞こえていなくても構わないのに」って思っていた。しかし最近、僕は自分の考えが間違っていたことに気づいた。シューゲイズという音楽にとって、気合が入りすぎたくらいの強いドラムは、エフェクター越しのギターと同等に大切であるべきだ。生のRIDEを、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインを見てますますそう思うようになった。
以下はクラウスのライブ映像だ。
クラウスのライブ映像でもやはり、くっきりしているわけではないノイズの中を、ドラムだけが鋭く突進するように響いている。やけに素敵な目立ち方をしながらドラムをめちゃくちゃに叩いている若い男性はウィル・クラウス本人。
このドラムが、クラウスという独りミュージックを最高の物に仕上げている。彼はまさに理想中の理想と言えるシューゲイザーだ。
ピッチフォークのインタビューで、クラウスは「あなたにとってドラムを叩くことはカタルシスなのか?」という質問にこう答えている。
もちろん。だからこそ僕はドラムが大好きなんだ。どちらかというと僕はドラマーというよりは作曲家って感じだけど、僕が一番コネクトできる楽器はドラムだ。自分の内側を表現する手段として、著しく制限された方法を用いるのは何となく素敵だよね。
音楽はとてもセンチメンタルなものだけれど、同時に荒々しい力も備えている。僕にとってライブ演奏の良さはそこにあると思う。人はただ「Fuck It !」と僕に求めるだろう、ドラムはその声に応えられる偉大な道具だ。
最近はギターを弾きながら歌う曲が半分くらいを占めるようにはなってはきたものの、未だに曲ごとにはドラムを叩きながら歌っている。いくらネットで検索しても、音の良い動画がほとんど出てこないない現状だ。しかし、視覚から伝わってくる勢いと、どうしても音が悪くならざるをえない会場での音量を考えると、僕は早くクラウスをライブで見てみたいと思う。
確か、『Path』がリリースされてしばらく経った頃に、DIIVのコールとその彼女、Launder、Deafheavenのジョージという面子がKrausのライブに行ってる動画をインスタストーリーで見たし、その直後にコールがこのアルバムめっちゃ良い!と珍しく『Path』のジャケをスクショしてストーリーに投稿していた。もちろん、僕は近い将来に「Deafheaven / DIIV Japan Tour with special guest KRAUS」があればなあと期待してる。実際にそんなイベントが決まったら、必ず諸君は「マジ前座なんかいらねえよう!」と口々にツイートするだろうし、今のうちにKrausをとにかくゴリ押ししておきたい。本当にシューゲイズ好きな人みんな聴いてください。日本盤五枚ずつくらい買ってください。
by merah aka 鈴木レイヤ
ENDRECHERIをサマソニ東京で見た!
moon-milk-overtrip.hatenablog.com
moon-milk-overtrip.hatenablog.com
サマソニに向けて、堂本剛のアルバムレビューを書いたミヨシです。
当人も無事サマソニでENDRECHERIとしての彼のパフォーマンスを見ることに成功したので、その一部始終を報告しようかと思います。
なお、僕が前に見た彼のライブは[si:]のツアーなので、生の剛体験に著しい断絶があることをご承知ください。
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前日のSparksなどの深夜ライブで疲れを隠せないまま幕張に舞い戻った僕は、本来予定では最初から見るつもりであったKnox Fortune(Tears For Fearsのカバーが最高だった)を途中から見始め、前の観客が帰っていく度にその隙間に入り、地道に前に進んでいく。
お陰で、一切強引なことはせずにステージ最前から10mぐらいのところまで近づくことに成功した。おそらく熱心な剛ファンなら発狂ものの距離感である。
Knox Fortuneが客席を撮影した後に歩きスマホしながら退場した途端に、大編成のENDRECHERIの設営が始まる。
ギター×2、ベース、ドラム、パーカッション、キーボード×2、ホーンセクション×3、コーラス×3に、剛が加わって合計14人という、おそらく今年のサマソニのマウンテンステージで最多人数の編成であったが、滞ることなくスムーズに準備が終わり、開始時刻の15分前には早くもバックメンバーが入場してサウンドチェックを始める。各々が適当に音を鳴らすのではなく全員でがっつりとセッションをし、その時点で早くも会場は濃厚なグルーヴに包まれて歓声が湧く。そしてバックメンバー御一行は一旦退場し、場の空気は少しずつ緊張していく。
何せ堂本剛が出てくるのだ。しかも農業アイドルというネット民からの支持も厚いTOKIOのサマソニ出演とは違い、今から出てくるのが誰なのか知らない客も多い中での登場。アレサフランクリンが白人たちの縄張りであるフィルモアに殴り込んだとき程ではないが、日本の音楽シーンでは間違いなく事件だ。
この英断が吉と出るか凶と出るか。開演2分前に客電が落ち、その答えが現れた。
バンドが演奏を始める中のっそりと出てきた剛は、まずは舞台袖でしばらくバンドの演奏をじっと見つめている。すぐには出てこず、まるで俺が監督だと言わんばかりの振る舞いに、あ、これはまともじゃないぞ、となんとなく察した僕の予感を裏付けるように、たらたらと、とてもかったるそうに中央のマイクスタンドまで歩く。ストリートギャングのような立ち振る舞い。あとサングラスとうっすらと生えたヒゲが胡散臭い。
そのままマイクを掴み、1曲目「HYBRID FUNK」を歌うのだが、マイクスタンドに手を乗せた姿勢を中々崩そうとせず、煽りとかそういう演出は一切なしで淡々と歌い続ける。
これはもしかしてもしかするかもしれないぞという期待を裏切らず、冒頭の4曲で剛は楽器を持つことなく全身フリーのはずだったのだが、ド派手なステージアクションは一切行わない。所々グルーヴに合わせてダンスのような素振りは見せたものの、粛々と進行していった。ただしその4曲は全て最新作からの、かつてなくファンク要素が強いナンバーである。ホーン隊も活躍するきらびやかな楽曲が矢継ぎ早に繰り出されている最中でのステージングなのだ。
また、当然のように曲間のMCはなく、5曲目(聞き覚えがないので色々セットリストを調べたところ「TU」の初回盤収録曲?)に至っては間奏で自らはベースを弾き後ろに下がり、手の空いたギタリストに煽りを任せて完全にバッキングに徹したのである。
ちょっと待て。アイドルという色眼鏡云々を通り越して、バンドではなくソロで活動をしている人間がバックに徹する? しかもそこはアウェーに近いフェス会場である。
畑違いのイベントに乗り込むミュージシャンは「お手柔らかによろしく」なり「名前覚えていってくれたら嬉しいです」なり、とにかく下手に出ようとするのが定石だが、以上のような態度で終始音楽そのものだけを浴びせようとする剛、いい子ちゃん化した近年の音楽シーンにおいてぶっちぎりで「ワル」である。
その後、シームレスに「Blue Berry」の間奏部分につながり、いわゆる「Berryジャンプ」なるワンマンでお決まりのパートに突入する。ここで全然説明もなく周りのファンが飛び出し、「え?」と我々は困惑するのだが、ステージ上の巨大スクリーンがライブ映像用に初めて解放され、剛の提示する指の本数でジャンプの回数が決まることをそれとなく示してくる。
一歩間違えたらファン以外には分からない内輪のノリのコーナーに陥るところだったが、ここまでの楽曲で「ENDRECHERIはあなたに親切に話しかけませんが、音楽で最高に気持ちよくさせます」という姿勢をはっきりと示し、客とバンドの独特の緊張関係を構築したがため、観客をステージに集中させ、即座に理解させることに成功していた。
更に「I gotta take you shamanippon」「TU FUNK」とメドレーで繋げて締めくくった後に演奏したライブ定番曲「Chance Comes Knocking」では、バックに超一流のギタリストを配していながらも、終盤には自ら堂々とギターソロを担当していた。ヨナ抜き混じりの和洋折衷なフレーズで、下駄を履かせてもらってだとかそういうお膳立ては一切なくひたすらカッコよかった。
その余韻を上回るように始まったのがなんと10分に渡るファンクセッション。アウェーの50分ステージであえてセッションに10分費やすだと...? 剛のメロウなギターソロから始まった後、バックメンバーのソロを次々とバトンタッチしていき、結果としてはコーラスの2人を除く12人がしっかりとソロパートを受け持った。流石にこんなサマソニのライブは初めてだ。
と言っても、全員超一流のミュージシャンだ。面白くないはずがない。少しずつ盛り上がっていく曲調に合わせてドライブしていくソロ合戦。それを貫禄すら感じるソロで締めくくる剛のギタープレイ。クライマックスではまるでトリのライブが終わった後のような充実感を覚えた。
最後に「ありがとうございました」と最初で最後のMCを残し、誰よりも早くさっとステージを捌ける剛。徹頭徹尾、寡黙なパーソナリティを保ち続けてサマーソニックという異なる界隈に身を乗り出した彼に僕は力一杯拍手し続けた。
無論、ここまで無言のフロントマンスタイルに賛否はあると思うが、自分のやる音楽に絶対の自信を持って、あえて音楽以外では口を封じたのであろう(少なくとも普段のライブではMCしっかりしてるし)姿勢は、なんとなーく見に来たぐらいの観客にインパクトを与えるには抜群であった。「アイドルを見に来たら真っ黒なグルーヴだった」「堂本剛舐めてた、すいません」の如き感想がTwitter上で結構見受けられただけに、今回のサマソニは見る側、見せる側共々貴重な体験をしたと思う。
見終わって僕が思ったのは、是非来年以降も積極的に夏フェスに出て欲しい、ということだ。今まで彼の音楽と縁もなかった人間を虜にするには、一発勝負のライブ会場に乗り込むのが最適であると思うのだ。というのも、音楽に多額の金をつぎ込む人々は概ね自分のテリトリーにいるため、能動的に他の界隈に出ていこうとしない。だからこそ夏フェスというのは、彼のフロンティア精神に打ってつけの場であるし、何よりも「生」の音楽をしている彼にとって、ステージの上は新たにファンを取り込むのに最高の場所である。だからこそ、色んなフェスで彼の音楽をもっと沢山の人に届けて欲しいし、唯一無二の世界観を構築している彼がそうすることはある種の義務と言いたい。
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あと余談になるが、今回のライブにおいて「剛ヤベェ」という内容の文言とともに、ステージをスマホで撮影した映像がTwitterで度々拡散されていた。
ファンからしては許せない行為かもしれないが、ちょっと待って欲しい。実のところ、欧米の音楽文化において、ライブの撮影はSNSでの宣伝手段としてほぼ好意的に受け止められており、サマソニ運営側も撮影禁止と言いながらスタッフの目の前で撮影していても無視という有名無実なルールと化している。剛も見に行ったPファンクの帝王、ジョージクリントンのステージに至っては「撮った映像はハッシュタグ付けてSNSにあげてくれよ!」とミュージシャン側が言ってしまう始末で、洋楽フェスに剛が出演したのは、もしかしたら本来彼の立場なら絶対にありえない客撮り映像の拡散を狙っていたのかもしれない、と僕は密かに推測している。
何せ、事務所の方針でYouTube上の動画はほぼ消され、ストリーミングサービス、はたまたダウンロード販売への参入はそう簡単にはいきそうにもない現状で、彼の音楽を聞く方法で一番手軽なのが街のレンタル屋なのである。それでは既存のファン以外中々聞く機会もない。そこにTwitterで彼の音楽が流れてきたら。
もしステージでの無愛想さから撮影規制の緩い洋楽フェスを選んだことまで全て計算づくでやっていたのだとしたら、相当の策士だ。
僕の思い込みが暴走しているだけかもしれないが、実際にあの場に居合わせた人ならそこまで買い被っているわけでもないと同意してくれるのではないかと思っている。
最後にこれは完全なる剛ファンへのヨイショなんですが(笑)、大分前で見ていたにも関わらず、剛が登場しても全然後ろから押されることなく終始快適に見れた上に、剛の出演が終わっても終日sankakuシャツの人をあちこちで目撃したので、別の畑違いのミュージシャンを呼んでファンのマナーで問題になるのなら、全部剛呼んだ方がいい。これはマジ。